4月23日に亡くなった衣笠祥雄さん(享年71)に、共に広島カープの第1期黄金期を支えた山本浩二さん、当時の監督である古葉竹識さん、長年カープを取材し続けた名物記者・駒沢悟さんが言葉を寄せてくれた。
“赤ヘル打線”の中心として、衣笠さんと共にチームを引っ張った山本浩二さん(71)は、入団年は衣笠さんの方が4年早いが、学年は同じ。同年代のライバル、“鉄人”の早い死を悲しんだ。
「寂しいよ。同期の身近な、この間の星野(仙一、故人)といい、今回のキヌといい、寂しいもんがあるよ」
1975年から85年まで監督としてカープを率いた古葉竹識さん(82)は、衣笠さんらと共に79年、80年、84年と3度の日本一を経験した。古葉さんは涙ながらに話した。
「訃報を聞いて、眠ることができませんでした。1月か2月下旬だったかな。びっくりしたのね。彼の声が少しおかしかったので『しかし、体調はしっかりしないといけないね』と話し、『どっか悪いのや?』と聞いても話さない。(ガンだったことについて)あまりそういうことは(周囲にも)言ってなかったと思う」
山本さんは衣笠さんとお互いを高め合ったライバル時代の思い出をこう振り返る。
「お互い張り合ってやってきたんだけど、優勝するまでは、ある程度負けたくない気持ちが当然強いわけだよね。でも優勝すると優勝の感激があるから、その後も同じライバルなんだけど、腹を割って話せるライバルになった。75年のリーグ初優勝のがきっかけで、自分の成績よりよも優勝したいという気持ちになった。チームが勝つためにはどうするか。良いお手本。二人がともに成長してきた」
75年のリーグ優勝からカープは実質黄金期に入った。そのきっかけは二人が高め合ったことによる相乗効果がチームに還元されていった。山本さんは、現役時代、衣笠さんの見習ったことについてこう振り返った。
「やっぱり連続試合出場。骨折しても出たりと。今でもそうなんだけど、試合に出てこそ『無事之名馬』。キヌがとてもゲームに出れそうにもない状態でも出るから、こちらも痛いところがあって試合出場は無理かなと思っても、キヌの姿を見てれば言えんじゃない。だから我慢した。それがプラスになった」
スポーツ報知で1967年からカープ担当になり、約半世紀に渡って取材し続けた名物記者・駒沢悟さんは、衣笠さんの思い出を2つ上げてくれた。