ノンフィクション作家・山田清機氏の新連載「大センセイの大魂嘆(だいこんたん)!」。今回は「ヤマダ道」をテーマに送る。
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50歳を過ぎたら、同窓会がやたらと多くなった。
往生が近づいてきたから、みんなで手を取り合おうとしているみたいで、なんだか切ないものがある。
先日、高校の同窓会に参加すると、一人ひとりに配られる飲み物のグラスに「大センセイ」と書いたラベルが貼ってあった。SNSで自分のことをこう呼んでいたら、いつの間にか定着してしまったのである。
会費を払おうとジーンズのポケットからヨレヨレの千円札を取り出すと、
「やだ、お財布持ってないところが大センセイっぽい」
と幹事の女性が言う。すかさず男性が横槍を入れた。
「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」
大センセイ、先生でも、センセイでもなく、あくまでも大センセイである。
では、いったい何の大センセイなのかと問われたら、なけなしの原稿料で口に糊する、貧乏暇なし、三界に家なき大センセイであると答えるであろう。
よく、本を出したというと、「印税生活ですか、優雅ですね」などと言う人がいるが、とんでもない誤解である。考えてみてほしい、本はちっとも売れないのに月給というものがないんである。ボーナスもなければ、福利厚生も社員食堂もない。当然、同僚もいないから、執筆の間はずっと、
「世の中どうなってんだかなぁ。まったくだねぇ」
などと、ひとり二役でお話ししたりしている。
ひとりぼっちである。
では、人生何の楽しみもなく、苦しみばかりなのかというと、そんなことはない。金がないなりに、いや、ないがゆえに、独自の楽しみをお持ちなのである。
昨年の冬は、道を作った。
万葉の昔、多摩川は「多麻川」と書いたそうで、実際、仕事場に近い河川敷には麻がたくさん生えている。
麻は夏の間に草丈を二メートル近くまで伸ばすが、秋には茶色く立ち枯れる。枯れた麻の茎は太くて硬い。大センセイ、その硬い茎に目をつけたのである。