生前の吉田竜夫さん。整理整頓された机でハクション大魔王を描く(撮影/写真部・岸本絢)
生前の吉田竜夫さん。整理整頓された机でハクション大魔王を描く(撮影/写真部・岸本絢)
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廊下や会議室の壁には、同社キャラクターの絵が(撮影/写真部・岸本絢)
廊下や会議室の壁には、同社キャラクターの絵が(撮影/写真部・岸本絢)

 ハクション大魔王に大笑いし、みなしごハッチにホロリと涙し、ガッチャマンに憧れた――日本人の誰もが愛したキャラクターを描きつづけるタツノコプロ。10月19日に創立55年の歴史を迎えたタツノコプロには、当初、アニメ経験者が一人もいなかったという。

【写真】廊下や会議室の壁には、同社キャラクターの絵が

 1960年代前半、漫画家として順調に実績を上げていた吉田竜夫・健二・豊治(ペンネーム九里一平)の3兄弟は、アニメーション制作に強い意欲を持ち始めた。スタッフとして当時から支え続ける笹川ひろしさんが回想する。

「竜夫さんの希望を聞きつけた東映動画(現・東映アニメーション)が『一緒にやりませんか』と声をかけてきました。タツノコ側が脚本、キャラクター設定、演出を担当。東映動画は3カ月かけてアニメーターの養成をする。それでゴーしましょう、と。

 我々は動画のことは分からない。そこで私と竜夫さんのアシスタントの2人も東映動画の養成所で研修を受けました。ところが、いざ、という段階で企画は流れ、実現できませんでした。

 こちらにはアニメーターがいない。でも竜夫さんたち3兄弟は『やる!』と引かない。結局、新聞にアニメーター志望者募集の広告を出し、集まった50人に私たち2人が教えたんです」

 四苦八苦してできあがった「宇宙エース」は、65年5月8日に第1回放送を迎えた。その成功に気を良くした竜夫氏は、続いて「マッハGoGoGo」の制作に取り掛かる。

「徹底的なリアルさを求めたおかげで作品は素晴らしかったんですが、他社なら1枚で済むセル画が、タツノコでは3枚描かないといけない。それでアニメーターが嫌がり、次の作品からは引き受け手がいない。『タツノコ作品は、見るのはいいけどやるのは……』と(笑)。それで、また新人を募集しました」

 新たに養成されたアニメーターが挑んだ作品は「科学忍者隊ガッチャマン」。

「リアルさを追求し、実写を入れ込んでみたらどうかと実験を繰り返しました。雨のシーンのためにホースで水を降らせてみたり。これは大失敗でしたが、こうした挑戦の成果で作品は評判を呼びました。『ガッチャマン』でようやく、アニメ制作会社としてやっていけると確信しました」

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