夕刻、東京・巣鴨の工房を訪れた。中央の大きなテーブルの上に新聞紙が敷き詰められ、盛り付け中の野菜サラダ、かき混ぜた納豆、トンカツ定食などが置かれている。食欲をそそられる風景だが、鼻腔をさすシンナーの臭いが脳に「食べられません」と警告する。「中華」「肉」などのラベルの貼られた器の中身は配合された着色用の塗料だ。
「手作業ですから、同じ種類でもよく見れば、10個あれば10個とも違うんです」
と話すのは、食品サンプル製造・販売「ながお食研」代表の長尾文美さん(65)。食品サンプルを作り続けて半世紀近くになる。
「天ぷらを作る動画をツイッターに上げたら、すぐに海外の人から『いいね!』がつきました」
素材は塩化ビニール樹脂。実物の食品で型取りしたシリコンの型に、色づけした樹脂の液体を注ぎ、大型のオーブンで熱して固める。タイマーが鳴ると、オーブンの中からふんわりとした「卵の黄身」が出てきた。
「これを茶わんに盛った『白飯』にのせ、透明の『白身』と『しょうゆ』をたらして艶出しすると『卵かけご飯』になります」
食品サンプルが日本に登場したのは大正時代。外食の普及とともにレストランや食堂には欠かせないものとなった。高度成長期には、百貨店や商業ビルの増床とともに業界は右肩上がりを続けた。だが今は、大手から個人経営まで200社もない。
「リーマンショックで、店舗からの受注がガクンと減ったのが大きかった」
打開策としてネット通販を開始。すると各地の百貨店から「催事出店してくれないか」と誘いがきた。
「お正月に実演販売やったら、珍しかったんでしょうね。人が集まった。何万円も買う人もいましたよ」
小さな町工場なので、試しに1個、2個作り、売れたら追加する。「半分齧(かじ)ったギョーザ」がヒットしたこともある。文房具にしたところ人気が出たものも。「エビフライ印鑑カバー」「鮭のしおり」など、用途と意外な組み合わせがウケるようだ。
帰り際、クチの開いたごみ袋に野菜クズが詰め込まれているのを見つけた。
「それは失敗したサンプル。そういえば最近シンクの三角コーナーを作ったら売れた。『生ごみ』の詰まったもの。お客さんが何を考えているかわからないよ(笑)」
※週刊朝日 2017年5月5-12日号