相澤氏の通夜に涙ながら参列した酒井法子 (c)朝日新聞社
相澤氏の通夜に涙ながら参列した酒井法子 (c)朝日新聞社
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 芸能事務所のサンミュージックが来年50周年を迎える。中でもアイドル全盛期、新風を巻き起こしたのが、「マンモスうれピー」「よろぴく」など「のりピー語」を流行らせた、酒井法子だ。法子もデビュー当時は創業者の故・相澤秀禎氏宅に下宿をした。

 福田時雄名誉顧問(86)が振り返る。

「法子と出会ったのは1985年の秋。資生堂とビクターとうちの事務所が催した『ミスヘアコロン・イメージガールコンテスト』というオーディションの場です。森田健作が司会をしていました。全国の予選を通過した12人を集めて中野サンプラザで決勝を行ったのですが、その中に中学生の法子がいたんです。溌剌(はつらつ)とした姿が印象的でした」

 歌や芝居の審査の後に「特技」を挑戦者に披露してもらうと、福岡から来た法子は落語の“寿限無”を博多弁で唱えたという。

「これがおもしろかったんです。でも名古屋から来た女の子が大声でカラスの鳴きまねをしてそちらも大ウケで。カラスか?落語か?で審査が揉めて(笑)。年明けすぐにCMでデビューなので、声が大きいほうが即戦力だということでカラスに軍配が上がったんです。でも法子のタレント性に惹かれて特別に賞を出し、事務所に来てもらいました」

 カラスのまねをした水谷麻里が86年3月に歌手デビュー。法子はその翌年、シングル「男のコになりたい」を発売し、歌手デビューした。根性のある子だった、と福田氏は振り返る。

「私はデビュー直後、所属レコード会社への挨拶回りに付き添ったのですが、最初に訪れた福岡で、『小さいときから歌が好きだったのでデビューできて嬉しい』と言ったので、歌好きは皆承知だよ、自分がどんな女の子かと自己紹介したら、とアドバイスしました。そうしたら次の営業所で、挨拶をこう変えたのです。『私は中学でソフトボールをやっていて県大会で負けました。勝った喜びも負けた悔しさもわかるので芸能界でも負けないようにがんばります』と。中学生なのに人間的に深みのあることを言うなあと感心しました」

 その深みは、法子の生い立ちに関連するのかもしれないと福田氏は直感したという。法子には当時、母親が3人おり、異母きょうだいもおり、住まいも転々としていたという。

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