昭和の銀座の街では、モボ・モガが闊歩していた(写真はイメージ)
昭和の銀座の街では、モボ・モガが闊歩していた(写真はイメージ)
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「ワンサカ娘」(レナウン)、「オールド」(サントリー)、「日立の樹」(日立グループ)、「チェルシー」(明治製菓)など数々のCMソングの作曲でも知られる小林亜星さん(83)。一風変わった家庭環境で育った小林さんが、実際に経験し感じた戦前戦後の東京を語る。

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 上海事変、満州国建国、5・15事件などで世情が騒然とした昭和7(32)年、東京は渋谷区幡ケ谷に生まれた。
 
 戦争が終わったのが13歳の時ですから、戦前の昭和を知ってるというには厚かましい年齢ですが、それでも戦争が始まる前の東京の雰囲気などは記憶に残っています。

 私の印象では、開戦直前までの昭和はわりと自由な風潮があったというものなんです。大正末期から昭和初期にかけてのエロ・グロ・ナンセンスの余韻がまだ残っていたんでしょうね、モボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)が銀座を闊歩してましてね。私の従姉妹なんかも奇妙な格好で出歩くものだから、私のおふくろは「あの娘とは歩きたくないわよ、みんな見るから」なんて言う、そんな時代でした。幼少年時の私の感覚では、享楽的で官能的で、けっこう自由だったような気がします。

 もっとも、私の家の環境はちょっと特殊でした。親父は逓信省の官僚でしたが、もともとは劇作家志望だったんです。新潟から出てきて、戯曲の勉強をしていたんですが、一緒に下宿していた友人の方が毎日新聞の戯曲コンクールに1等当選し、親父はかすりもしなかった。その友人ってのが、後に「太陽の子」や「裸の町」を書いた真船豊さん。親父は頭にきて逓信省の役人になっちゃった(笑)。

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