「誰もが生活保護レベルの暮らしになり得る」「老人が極端に嫌われる時代が来た」──。今年、世間に大きな衝撃を与えた藤田孝典さんの『下流老人』(朝日新書)と、五木寛之さんの『嫌老社会を超えて』(中央公論新社)。9割貧困社会の危機を説く二人に、50歳という年齢差を超えて語ってもらった。
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藤田:平均値だけ見ると高齢者は豊かですが、平均という数値はあてにならない。高齢者の平均貯蓄が1200万円という数字がありますが、実際には「貯蓄ゼロ世帯」が16%を超えています。
五木:日本は今、実際にはそんなに豊かじゃないんですよ。だけど、表面的には豊かに見える。隠されているからです。その隠れた9割部分の貧困をきちんと直視するようにしないと、これから先に進めない。
藤田:僕らの世代は、ほとんどがウィンドーショッピングですよ。買わないし、買えないですもん。僕は、越谷レイクタウンという日本最大級のショッピングセンターの近くに住んでいるので、毎日買い物客の行き帰りを見るんですね。だけど、買っている人ってほとんどいないんですよ。ちょっとお茶を飲んで、どんなものが流行っているのか見てといったふうに、居場所としては機能しているけれども実際には買っていない。賃金も低くて将来も不安だったら、基本的には貯金しないといけないので。だから、個人消費って相当落ち込んでいると思います。
五木:少数の豊かな人と多数の貧しい人を作り出す構図が、今どんどん激化している。なのにそれが見えないというのが不思議ですね。
藤田:貧困って昔から見えにくいものとされてきた風潮があります。なぜかというと、本人が声を上げないから。高齢者の高所得者の人こそ楽しい姿を見せたがるけれど、貧困層の人たちは自分の姿をさらしたくないところが大きい。
五木:藤田さんが見るとそうかもしれないけれど、僕の実感では昔は貧困ははっきりと目に見えて、むき出しでした。東京でも、3大貧民窟などというのがあって、それは本当に別世界に行くような感覚だったし、昔のお寺や神社の祭礼では、境内の長い道の左右にずらーっと物乞いの人が座って。身体障害者とか、子ども連れとか、いろんな物乞いの行列だった。10年前までは港区の周辺なんかもホームレスがたくさん見られたけれど、今はもうほとんど目にしない。本当は貧困の度合いが進んでいるにもかかわらず、どんどん見えなくなっている。
──将来の下流予備軍とされる若者ですが、彼ら自身はそんなに貧困だと思っていないように見えます。
藤田:生まれつき貧困に慣れているんですよね。若者世代は「しょうがない」という諦め感に近いものをもっている。一生涯、貧困とは向き合わざるを得ないと思います。
五木:不思議なのは、抗議というものがあまりないこと。米騒動とか血のメーデー事件とか、そういったものが全然起こらない。今は、生かさず殺さずの微妙なラインにいるから、人生をなげうって反乱を起こすまでにはいかないとは思いますが。
藤田:歴史的に見ても、反乱が起きたころの貧困や格差と今ってあまり大差がなくて、今のほうがもっと貧困が広がっているんじゃないかと思います。いつマグマが噴出してもおかしくないところまで来ている。
五木:今の社会福祉は、暴動予防のためのものですよ。暴動が起こらないギリギリのところで、最小の予算で何とかやっていこうとしている。
藤田:社会福祉は、統制する側にいないと金にならないんです。例えば介護保険制度でこれぐらいしか予算がないから、これぐらいでサービスを提供しましょうとか、そういう統制側です。現状だと、そうした統制の手先にさせられるのが社会福祉で、本当に困っている人を「まあまあ」となだめるのが実際の姿です。本当は、困窮している高齢者自身がもっと声を上げてくれると、生きた問題提起になると思うのですが。
※週刊朝日 2015年11月20日号より抜粋