「地方の空襲」をテーマに募集した体験談や手記には、いまなお鮮烈な記憶が刻まれていた。空襲を受けるばかりで、どうすることもできなかった憤り、憎しみ、悲しみ、そして嘆き──。
國本洋さん(80)は、戦争の狂気と権力の横暴さを胸に抱えながら生きてきた。
戦争末期、國本さんは山口県下松(くだまつ)市に住んでいた。同市の海岸沿いには日本石油、日立製作所、東洋鋼鈑の工場が操業していたが、空襲によって壊滅した。
國本さんは工場のある場所から1.5キロに自宅があり、空襲時は母親と子ども3人で山腹に掘られた防空壕に避難していた。夜の0時ごろ、戻ってみると、自宅は焼けていなかった。床につきウトウトしていると、母親が近所の人と話す声が聞こえてきた。
「もうこれで安心だ。全部やられてしまったので、もう空襲はない。安心して寝られる」
すると、男性の大きな声がした。
「今言ったのは誰か、出てこい! 日本がやられて安心だ、寝られるというのは日本が負けて喜ぶのか。負けることがうれしいのか」
びっくりした國本さんは目が覚めた。それから翌日の昼まで母親は帰ってこなかった。帰ってきた母親はどこに行っていたのか、一言も言わない。