長い沈黙が、突如として破られた。

 1997年、神戸市で連続児童殺傷事件を起こした

 加害男性(32)が「元少年A」の名義で6月10日、手記『絶歌』(太田出版)を出版したのだ。

 手記ではAが殺人願望に取りつかれて14歳で事件を起こすまでの経緯や心境が記されている。また、医療少年院を経て2004年に社会復帰して以後、時にマンガ喫茶や簡易宿泊所を転々としながら日雇いバイトや溶接工の仕事を行っていたことも明かされた。

 出版前に、被害者家族への相談はなかったという。Aに殺害された土師(はせ)淳君(当時11)の父親は「メディアに出すようなことはしてほしくないと伝えていましたが、私たちの思いは完全に無視されてしまいました」とコメントし、出版の中止と本の回収を求めた。

 太田出版の岡聡社長は、経緯をこう説明する。

「私の所に人を介してAの原稿が持ち込まれたのは3月頭。以降、本人とやり取りしています。文学的なセンスがあると思い、出版を決めた。独特の文体なので、加筆などはせず、本人が書いたもの。反発も予想したが、加害者本人の声は読む価値があると判断した。初版は10万部で、印税は本人に渡すことになっています」

 だが、太田出版の関係者はこう言う。

「他の有力出版社に持ち込まれた原稿が“ボツ”になって、社長同士が親しいウチに回ってきたと聞いた」

 Aの関係者も、出版は寝耳に水だったという。

 A一家は事件直後、被害者遺族からの損害賠償請求を起こされ、約2億円の負債を背負っている。

「Aの両親は退職金や手記本『「少年A」この子を生んで……』の印税などで、これまで約8700万円を返済。Aの仮退院後も返済を続け、直近まで毎月7万円(Aが1万円、両親が6万円)を支払っていた。被害者の命日にもAが謝罪の手紙を送り続けてきた。だが、今回の件で被害者との信頼関係が崩れてしまった。遺族から、Aの手紙の内容がよくなったという談話も出してもらっていたのに、自らぶち壊してしまった」

 Aが入院していた当時の関東医療少年院院長で精神科医の杉本研士氏も戸惑う。

 
「『困ったことをしてくれた』と思いました。犯罪被害者の家族のほとんどはPTSDなどに長く苦しむ。加害者への怒りと拒否の段階から少しずつ立ち上がっていかなければいけないのに、こんな突出した行動に出るとは。非礼では済まない乱暴なことです」

 手記には、小説のような「文学的」な表現が目立つ。殺害した淳君の頭部を中学校の正門に置くため家を出る場面はこうだ。

<葉型に拡がったカーテンの裂け目に両手をかけ、僕は外界の処女膜を破り、夜にダイブした>

 不可解な点もある。

 97年の家裁審判の決定文では、「スパルタ教育」だった母親から厳しく叱責され続けるなど、母親の「過干渉」がAの人格形成に大きな影響を与えたことが、かなりの分量を割いて記述されている。

 しかし手記では事件前の記述で母親との関係についてほとんど語られない一方、<母親を憎んだことなんてこれまで一度もなかった>と、これまでの「定説」に反論しているのだ。神戸家裁でAの審判を担当した井垣康弘元判事が語る。

「Aが20歳の時の少年院の収容継続審判の際、母親が『本当にあんたが(事件を)やったんやね?』とAに尋ねた。直接、息子の口から聞かない限り、信じないという母親の思いを知り、百八十度変わったのだと思う」

 前出の杉本氏も言う。

「手記では少年時代の『心の骨格の歪み』がどう形成されたのか、まとめ方が曖昧。母親との関係に正面から向き合うべきだと思う。ただ、社会復帰後の生活の記述では切迫した心情も見える。事件直後には『早く吊るしてくれ』と叫んでいたが、今は<僕は今頃になって、『生きる』ことを愛してしまいました>と告白している。それを信じたい」

 Aは12年冬に溶接の会社を辞めた後、短期バイトなどをしながら執筆を続けていたという。本当に更生の道を歩んでいるのか。

「崩れそうな自分を支えるために本で吐き出さざるをえなかったとすれば同情できるが、文章を発表することでまた人を傷つけてしまう可能性が大きい。自重と幸運を祈りたい」(杉本氏)

(本誌取材班=一原知之、上田耕司、小泉耕平、長倉克枝、永野原梨香、牧野めぐみ、山岡三恵/今西憲之 菅野朋子)

週刊朝日 2015年6月26日号