辺野古移設問題のため、沖縄に行ったジャーナリストの田原総一朗氏。あらためて問題の複雑さを感じる機会があったそうだ。
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沖縄の米軍基地移設問題、つまり、現在政府が工事を進めようとしている「辺野古問題」について、5月29日深夜放送の「朝まで生テレビ!」で討論するために那覇に行った。そして那覇で、番組の前に放送局の幹部やジャーナリスト、経営者の人々と時間をかけて話し合った。
私は、沖縄は何度も、言ってみれば日本のために犠牲を強いられた地域だととらえていた。
例えば、太平洋戦争の末期、国内で唯一、住民を巻き込んだ激しい地上戦が行われた。犠牲者は20万人以上に上ったが、そのうち9万4千人が沖縄の住民、つまり一般市民だった。県民の4人に1人が命を落としたことになる。日本軍の強制で集団自決した住民も少なからずいた。
1945年、戦争が終わると米軍に占領され、以後27年間、米国の占領下にあった。72年に日本に返還されたとき、沖縄の人々は米軍基地が沖縄からなくなる、あるいは少なくなると期待した。だが、基地は逆に増えたのであった。
だから沖縄の人々は、日本政府に、そして本土の人間たちに複雑な気持ち、率直に言えば怒りを感じているのだろうとは考えていた。
だが、そのことを言うと、沖縄の人たちは私の話には乗らず、「琉球処分」という言葉を口にした。
1990年から98年まで沖縄県知事を務めた大田昌秀氏は革新系だったが、96年から98年まで首相を務めた橋本龍太郎氏や、野中広務氏、梶山静六氏などとは心を開いてかかわれたという。
野中氏が以前、私に語ってくれたことがある。
「橋本内閣、小渕内閣のとき、私は沖縄の島を全部訪ね歩いた。そして、そこに住む人々と酒を飲み、とことん話し合った」
野中氏らは「琉球処分」を知っていたからこそ、沖縄の人々の心を理解しようと努めたし、大田氏も、彼らと心を開いてかかわれた。だが、現在の政府にはそれがない。
私は、沖縄に行く前は、番組の中で沖縄の人たちから「辺野古への移設はケシカラン」「日本政府は沖縄県民の気持ちをよく考えろ」といった激しい批判をがんがん受け、それらの収拾がつかなくなるのではないかとさえ思っていた。
ところが、激しい怒りの声はあまり出なかった。パネリストの一人が、こんなことを言った。
「沖縄の街は静かでしょう。クルマがめったにクラクションを鳴らさないんです。乱暴運転をすることはあるが、そんなときにクラクションを鳴らすと、鳴らした運転手のほうがとがめられる。いや、とがめる顔つきをされる。だからクラクションを鳴らさない。沖縄とは、そういうところです」
だから、地元の声を無視して辺野古移設作業を進める政府に激しい憤りを抱いていても、それがストレートに怒りの言葉になっては出ないということなのであろうか。私は、あらためて沖縄にかかわる問題の難しさを強く感じていた。
※週刊朝日 2015年6月19日号