黒田家第16代当主の黒田長高(ながたか)氏は、敷地内にある蔵の中には黒田家伝来の国宝の品々があったとこう語る。
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祖父、親父と2代続けて学者でしたが、学者の収入は多くありません。特に戦前は、家で多くの使用人を雇っていたから、収入が支出に追いつくわけがない。
そこでわが家は、2万坪ほどあった赤坂の土地を切り売りしていきました。分譲を重ね、戦後の財産税は土地で物納です。現在では、残した土地に等価交換で建てたマンションに、いくつかの部屋を持つのみです。
私が子どものころの敷地は1200坪でした。門から玄関前の車回しまで50、60メートルくらい。よく近所の友だちと三角ベースをやったものです。敷地には、黒田家伝来の品々が保管された蔵もありました。
52万石という大藩の藩主でしたから、それなりに家宝も伝わっていました。例えば、国宝の「金印」。「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と彫ってある、あれです。
金印は、江戸時代に志賀島[しかのしま(福岡市)]で農作業をしていたお百姓が見つけたとされています。お百姓は金印を奉行所へ持っていき、藩から白銀5枚のほうびをもらったそうです。かくして金印は藩主である黒田家のものとなりました。
官兵衛にまつわるものでは、信長にもらった名刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」と、北条攻めのときに終戦の交渉役を務めて北条父子からお礼として贈られた太刀「日光一文字(いちもんじ)」が、いずれも国宝になっています。家臣の母里太兵衛(ぼりたへえ)が、大杯の酒を飲みほして福島正則から譲り受けた名槍「日本号」もありました。これら家宝は全部で7千点くらい。ほとんど福岡市にお譲りしています。
実は、蔵にあったこれらの家宝を、私は一度も見たことがありませんでした。祖父や両親から官兵衛や長政のことを聞いたこともないし、自分の家系について興味もなかった。私は次男ですからなおさらです。
27歳のときに生まれて初めて、黒田家が代々治めていた福岡を訪れました。黒田家の家宝を収蔵することになった福岡市美術館の開館セレモニーに、親父の代理で出席したのです。そのときには、母は亡くなり、親父は生まれつき心臓が悪く半身不随になってしまった兄につきっきりで看病していたためでした。
福岡には、旧家臣の方々を中心とした「藤香(とうこう)会」と「黒田奨学会」という会があります。今でも忘れられませんが、初めて訪問した福岡から帰るときに、空港まで見送りにきていた二つの会の方々が、万歳三唱をされました。いや、びっくりして。恥ずかしいなんてもんじゃありません。でも、この訪問から少しずつ、黒田家ということを意識するようになりました。
司馬遼太郎さんの『播磨灘物語』をはじめ、それまで手に取ったこともなかった官兵衛関連の本を読みだしました。兄が亡くなり父も他界して、私が当主となったのは5年前です。
うちは大学院生の娘が1人。私の希望としては、婿養子を取って黒田の名を残してほしいのですが、口に出したことはありません。「軍師官兵衛」がはじまって以来、娘も周りから色々と言われるようになって、うんざりしていましたからね。でも私とちがって、子どものときから黒田家のことを意識していたようですから。大丈夫でしょう。
(構成 本誌・横山 健)
※ 週刊朝日 2014年12月12日号