一度は断絶したものの明治に入り復興した小早川(こばやかわ)家。武家だった小早川家だが、再興してからは車との縁が深いと当主・小早川隆治(たかはる)氏はいう。
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小早川家で有名なのは、なんといっても小早川隆景ではないでしょうか。毛利元就(もとなり)の三男で、当主が亡くなった小早川家を継ぐため養子に入りました。
吉川(きっかわ)家の養子となった兄の吉川元春(もとはる)とともに毛利家をもり立て、「毛利両川(りょうせん)」と呼ばれました。天下を統一した豊臣秀吉のもとで、徳川家康らとともに五大老にもなっています。
隆景に実子はなく、養子となって跡を継いだのは、秀吉の正室ねねのおい、秀秋です。関ケ原の戦いで西軍から東軍に寝返ったことで知られています。秀秋は子どもがないまま21歳で亡くなりましたので、小早川家は断絶しました。
毛利家としては、小早川家が途絶えたことをずっと残念に思っていたのでしょう。1879(明治12)年、公爵・毛利元徳の三男・三郎が小早川家を再興します。
三郎は若くして亡くなり、その弟の四郎が小早川家を継ぎ、まもなく男爵家となりました。ところが、四郎にも子どもがいませんでしたから、またまた毛利家から養子を取りました。それが親父の元治(もとはる)です。私は親父の実子ですから、小早川家にとっては約400年ぶりに生まれた跡継ぎでした。それだけに侍従次長だった祖父も親父も大変喜んでいたようです。
戦前、親父は技術者として日産車の開発に従事しながら、レースも楽しんでいました。小早川家の養子になるときには、毛利家からそれなりの財産を分けてもらっていたはずです。まだ経済的余裕もかなりあったようで、「MG K3マグネット」という世界で30台ほどしかつくられなかったイギリス製のレーシングカーを手に入れて、多摩川スピードウェイでのレースに出場していました。
屋敷は東京・白金高輪にありましたが、第2次大戦の東京大空襲でぜんぶ焼けました。ただ、疎開から戻ってみると、K3マグネットだけは奇跡的に焼け残っていました。急ごしらえで建て直した掘っ立て小屋のような車庫のなかでたたずむK3マグネット。運転席に座って木のハンドルを握ったときの触感と高揚感。小学生のときのこの感覚は今でも覚えています。僕の車への興味と関心は、このときに芽ばえました。
中学のときに乗り始めたホンダの初代カブというバイクから始まり、大学に入ると車にのめり込みました。そのころはわが家に経済的な余裕はないですから、中古のオンボロを手に入れては、油まみれの毎日でした。
就職は、ちょうどロータリーエンジンの開発を始めたばかりのマツダ。3代目RX―7の開発責任者もしましたし、1991年のル・マン24時間レースでは、幸運にもモータースポーツ担当責任者として優勝を経験させてもらいました。13年前にマツダを退職してからはモータージャーナリストに転身。73歳の今にいたるまで、大好きな車から離れられない毎日を送っているのです。
わが家は、江戸時代がぽっかりと空いている家系ですから、家訓も言い伝えもこれといったものはありません。ただ、車への情熱だけは、親父から受け継いでいます。家内からは、もっと家族のことを考えなさいと言われ続けてきましたけどね(笑)。
(構成 本誌・横山 健)
※週刊朝日 2014年10月31日号