菊池被告の特別手配ポスター (c)朝日新聞社 @@写禁
菊池被告が最後に潜伏していた建物 (c)朝日新聞社 @@写禁
1995年に起きた東京都庁の郵便小包爆発事件に関与したとして、殺人未遂幇助(ほうじょ)などで起訴された元オウム真理教信者の菊地直子被告(42)。その裁判員裁判が、6月30日に判決を迎えた。公判を通して見えてきたものとは? コラムニストの北原みのりさんが傍聴した。
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2012年6月、17年間逃亡し続けたオウム真理教元信者、菊地直子が逮捕された。
逮捕時の写真が公開された時、指名手配写真とのあまりの違いに驚いた。「別人じゃん!」と叫んでしまったが、それくらいにこの17年間、この人の顔は街の景色の一つと化していたことに改めて気がついた。
風景のように知っていた「菊地直子」という人について、それでは、私は何を知っているのだろう。
松本智津夫をはじめ、オウム真理教の幹部たちはほぼ全員、刑が確定している。菊地直子の裁判によって、新しい事実が出てくることはないだろう。それでも、地下鉄サリン事件から19年にして、そして特別手配犯が全員逮捕された今であっても、オウム真理教が引き起こした事件が、「過去の事件」として清算されているとは思えない。
松本智津夫に帰依し続ける宗教団体Alephは信者数を伸ばしているといわれ、オウム真理教の被害者への賠償は滞っており、さらに95年当時1万2千人いたといわれる元信者たちに対する偏見や差別は未だに根深い。
今回、菊地の裁判について、元出家信者の女性(当時は20代半ば、以下Mさん)に話を伺った。彼女は菊地の逮捕について「他人ごととは思えなかった」と語った。事件に直接関わっていなくても、オウム信者だった過去は口外できるものではない。親しい人や職場の同僚に過去を隠し生きてきた菊地直子の17年間は、そのまま、多くの元信者たちの17年間でもある。
菊地が問われているのは、「殺人未遂幇助(ほうじょ)」「爆発物取締罰則違反幇助」である。地下鉄サリン事件後、教団は捜査を攪乱(かくらん)する目的で青島幸男都知事(当時)宛てに爆発物を送付し、郵便物をあけた男性職員が大けがをした。菊地は爆薬の原料の運搬に関わった。裁判の争点は、彼女が運搬した薬品の使用目的を知っていたか。菊地は「自分に化学知識はなく、幹部たちの命令に従っただけ」と無罪を主張している。
裁判自体は爆薬の名前や化学記号の確認などに費やされ、雑な言い方ではあるが地味だった。日に日に傍聴希望者が減っていき、退廷する傍聴人から「つまんないね」という声が聞こえることもあった。
確かに「刺激的」な裁判ではなかった。菊地はほとんど表情を変えず、ひっそりと、という感じで被告人席に座っていた。元信者たちが彼女に不利にあたることを証言しても動揺する様子はなく、時折ノートにペンを走らせるだけ。指を失った被害者が証言台に立った時も表情は変わらず、見ようによっては「反省していない」ように受け取られかねないものだった。
唯一、思いのようなものを感じたのは、被告人質問で、「世界記録達成部」(様々な分野で世界一を達成するためにつくられた部)について話した時だ。
菊地は、毎日40キロを、時には10キロの重りをつけて走ったという。「あなたの記録は、世界記録から50分近く離れていたが?」との弁護士からの問いに、「無理だと諦めたら達成できない。0.1%の可能性しかなくても、努力することで、1%、2%と可能性が増えていく」とキッパリと答えていたのが印象的だった。それはまるで、学生時代の思い出を語るかのように、楽しそうですらあった。
「あの頃の私たちには、『頑張ります』しか言う言葉がなかったんですよ」
自分の意見を持つことはもちろん、感情を持つことも悪であり、たとえ景色を見ても「美しい」と感じてはいけない修行生活だった。富士山の麓に築かれた巨大サティアンで暮らしながら、Mさんは「富士山をきちんと見たことがなかった」と語った。窓一つない生活空間には、コスモクリーナーと呼ばれる巨大な鉄の箱が置かれており、それが「空気清浄機」だと言われていた。殺生が禁じられているので、ネズミやごきぶりが走り回っていた。食事は1日1回タッパーに入れられた味のないパンやラーメンが配られるだけ。たとえ腐っていたとしても、そこに囚われるのも、修行が足りないためである。そんな生活を送りながら、誰もが思考停止し、前向きに「頑張っていた」のだ。
菊地が何を知っていて、何を知らなかったのかは私には分からない。が、いつからか自分の頭で考えることを完全に止めてしまったのは確かなのだろう。
例えば、「何故逃亡したのか?」という、菊地という人柄を知るのに最も重要と思われる弁護人の問いに、彼女はこう答えていた。
「林(泰男)さんに『じゃ、行こうか』と言われたので、ついていきました」と。
それにしても、裁判を傍聴しながら、私は不思議な感覚に囚われ続けていた。それは元信者たちが教団での生活や教義について証言している時に、どうしようもなくわき上がる感情だった。95年、サリン事件が起きた時、私にとってオウム真理教は「カルト」にしか見えなかった。変なヘッドギアつけて、変なお面をかぶって、変な服着て、変な教祖を信じきっている気の毒な人たち……。どこかで、そう突きはなして考えていた。それが、2014年の今、日本社会に身を置きオウム裁判を傍聴していると、とてもじゃないがオウムが過去の物語、カルト集団の戯言、とは思えなくなっていたのだ。
例えば、「ポア」について元信者たちが証言した時のことだ。「ポア」とは「意識を高い状態にひきあげる」ことで、「殺人」も正当化できる教えだったと言われている。当然、殺生を禁ずる教義とは矛盾する。弁護士が元信者に問う。
「オウムが人を殺すことはあると思っていた?」
元信者の男性が答える。
「思っていない」
弁「人殺しは正当化されると思っていたか?」
信「矛盾ではありますが、感覚として捉えていた」
サリンの製造に関わった別の元女性信者は「ポアは、言葉だけだと思っていた」と答え、菊地は「机上の空論、たとえ話だと思っておりました」と明言していた。
オウムでは疑念を持つことが禁止されていた。たとえリンチで殺される信者や、過酷な修行が原因で命を落とす信者がいても、誰も「あの人はどこにいったのか」とは聞かなかったという。 一部の上層部だけが情報を握り、ほとんどの信者たちは不確かな噂レベルの情報しか得られなかった。理性で考えれば矛盾することも、感覚として受容してしまう空気ができていたのだ。
傍聴しながら私は何度も、あれ? あれ? と戸惑い続けた。私は95年の当時よりも、ずっとオウム真理教の空気が分かっているのだ。なぜなら法廷で語られるオウムの空気が今の日本の空気と、とても、似ているから。20年前は「カルト」だと思っていた世界が、なぜこんなにも身近に分かるようになってしまったのか。
Mさんは、仲間が“消えて”いくなど、教団が“犯罪”に関わっていることを、当時から何となく感じていたという。それなのに疑念を封じ込め、自分が高い世界に行くために修行をしてきた過去の清算は、一人では整理できなかった、と話した。過去の自分を客観視するためにも、元信者どうしで集まり続け、言葉にしていく作業をしてきた。元信者が集まるだけで危険視する人もいるが、同じ体験をした者どうしでしか癒やせない傷がある。そういう経験があった上で、ようやく「オウムだった自分」を最近になって語れるようになったという。
それでは、菊地直子はどうだったのだろう。彼女は、「オウムだった自分」を、どう見つめているのだろう。裁判では教団で受けたイニシエーションについて質問されても「喋ってはいけないことになっている」と語らず、サティアンでの思い出を懐かしそうに語り、被害者を目の前にしても表情を変えなかった菊地に、「オウムだった自分」はどのように見えているのか。
そしてそれは、私たち自身にも、返ってくる問いではないだろうか。地下鉄サリン事件から19年。私たちはオウムが引き起こした事件から、何を学ぶべきだったのか。それを問わなければ、一連のオウム事件を、私たちは過去のものとして語ることすらできないのではないだろうか。
※週刊朝日 2014年7月11日号