多くの裁判を傍聴し、著書に「裁判長!死刑に決めてもいいすか」などがある北尾トロ氏は、売春容疑で捕まった妻の奇妙な「気遣い」を目にしたという。
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被告席に若い女が座っている。まだ三十路にも達していないだろう。都内の路上で声をかけ、売春しようとした容疑だ。
女は十分若くて美しい。法廷での受け答えもしっかりしている。高望みしなければ、働き口はいくらでもあるだろう。ということは、何か事情があるのだ。
近頃の女性は気軽にAVに出たり、性風俗店で働くことに抵抗がなくなったと言われるが、法廷に出てくるその種の女性たちを見ていると、そんなのはごく一部の話だというのがわかってくる。
多額の借金に追われているから、親への反抗心からぬかるみにはまって、母子家庭でフルタイムの仕事に就けず夜の仕事を選んだ、働かない夫に強制されて仕方なく……。好きでやっていたから捕まっても後悔してない、などと言う被告は見たことがない。
この被告も、目的は金だった。夫はリストラされて無職。収入がないので、生活の破たんを防ぐために仕方なく夜の街に立っていた。夫にはナイショで売春していたらしい。
稼ぐにはなんたって売春。これが若い女性の常識なのか。手段は良くなかったけど、被告は被告なりに内助の功を発揮しようとした。そういうことか。うーん、何かが引っ掛かる。
なぜだろうと考えて、路上で男に声をかけるプロっぽい行為が不自然なのだと気がついた。性風俗店でいいではないか。そのほうが気楽だし、収入面でも安定する。店を選べば、空いた時間だけ稼働することだって可能だと思う。
どうもこの事件、変だぞ。審理が進むにつれてわかってきたのは、被告と夫の奇妙な関係だった。夫は被告より10歳年上の中堅サラリーマン。酒やギャンブルもやらず仕事熱心なところに被告は惹かれ、親の反対を押し切って4年前に結婚した。まだ子供はいないが、夫婦仲は良いほうだ。夫には古風なところがあって、妻が働くことを望まず、専業主婦でいてくれと言われていたそうだ。近いうちに子供を作ろうと考えていたのだと思われる。
ところが2年ほど前、予定が狂う。夫が勤め先をリストラされてしまったのだ。事情が変わったのだから、妻がパートにでも出ればいい。が、それができなかったところに事件の伏線があるのだ。リストラされたことを夫が隠したのである。
「夫は家で仕事の話をしない人ですが、元気がないし、帰宅時間が早いことからおかしいと気がつきました。でも、なんとなく、リストラされたのとは言いだせませんでした。少しは貯金もありましたし、そのうち新しい仕事が見つかるだろうと考えていました」
行くあてもないのに愛妻弁当を持って出かけていく夫。何も知らないふりをして見送る妻。仕事は見つからず、奇妙な生活が長引いていく。一円も振り込まれない給料について話題になることもなく、表面上は何一つ変わらない暮らしが継続されていく。この期間、夫は短期のバイトをしていたようだが、家に金を入れるほどの収入にはならなかった。
ここからが妙だ。貯金が底をついたとき、妻はこう思いつめるのだ。定職に就くのはリストラを知っていることになり夫を傷つける。専業主婦の立場のまま、そこそこの収入がほしい。銀行振り込みは証拠が残るからダメ。そうねぇ、売春なんてどうかしら。スケベそうな堅気男を探して1回3万円。月に数人程度なら生活費の足しにしても目立たないのでは。
おいおい、どうしてそうなる。聞いていて不思議だが、被告はそのように決め、半年ほど前から、おもにネットを使って相手を探すようになった。捕まったときは待ち合わせの場所に相手が現れず、スケベそうな男を選んで声をかけたらしい。それが運悪く警察官。被告はプロだからではなくアマチュア丸出しだったから、路上で客を捕まえようとして最悪の相手を誘ってしまったのだった。
うまくやっているつもりだったが、夫は妻の変化にすぐ気づく。暇なので、外出する妻の後を追い、知らない男と会っているところも目撃した。でも、問い詰めることもせずにこう考える。リストラされたことを彼女は知っているが、知らないふりをしてくれている。たぶんフーゾクか何かの仕事だ。妻よありがとう。ボクもこの件は知らないことにするよ。
ふたりとも相手に気を使い過ぎ。しかも、使う方向がおかしい。ごまかしと優しさは違うはずだ。かくして、夫は安定したサラリーマンを装う生活を続行。妻は幸せな専業主婦を演じ続ける。お互いに秘密があるため、あたりさわりのない話題を探すのに苦労したらしい。現状から目をそむけて、すべてをないことに。しかも、これはこれで成立するのだ。
リストラされてるけど、夫がそれを言うまでは勤めていることにする。カラダ売ってるけど、妻がそれを言うまでは専業主婦だということにする。
あうんの呼吸でそう決まり、妻が稼ぎすぎないように注意してもたらす金と、夫が借金してもたらす金で暮らしていた。
「私の仕事さえ決まれば、すべて元に戻ると考えていました。妻をいまも愛しています。今回の件を責める気はありません」
証言席で述べながら夫は泣いている。横で聞く妻の目にも涙があふれている。でも、ぼくにはそれも演技に見えてしょうがない。信じられない言葉が夫の口から飛び出したからだ。
「仕事ですか? まだ決まっていません。職種や収入の面で希望と合致するものがなかなかなくて……」
何も解決してないよ……。
数カ月後、今度は夫の了解を得て、性風俗店で働く妻の姿を想像してしまった傍聴人は、ぼくだけではないはずだ。
※週刊朝日 2014年5月2日号