ボルネオ島で昆虫採集をしてきた生物学者の池田清彦早稲田大学教授。野生の中で暮らしてきたはずの人類は今、国家や貨幣が実在する“観念”の中で生きているという。

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 3月24日から4月3日まで、ボルネオ島サバの山奥に虫探りに行ってきた。同行は養老孟司、松村雅史、私の女房。コタキナバルから車で5時間のツルス・マディという山でキャンプをしながらの虫探りである。残念ながら季節が少し早かったようで、昼間の採集は思ったほどはかんばしくなかったが、灯りをつけての夜間採集は新月の前後だったせいか、夥(おびただ)しい数の蛾や蝉や甲虫やハチやカメムシが飛来して、選んで採集するのが大変なくらいであった。

 小さい蛾や甲虫はどんなに沢山飛んできても量は知れているが、蝉やスズメガといった大型の虫が沢山やってくると、灯りの周りはすさまじい騒ぎである。一晩に飛んでくる蝉とスズメガの数だけでも、合わせて1000匹は下らなかったと思う。それが顔にぶつかり、服に止まり、体中が虫だらけになる。虫嫌いな人なら卒倒するに違いない。

 しかし、蝉やスズメガは高タンパク質の食材で、いざとなったらこれらを食べていれば生き延びることができるが、都会に住んでいる人は、気色悪いと思うだけだろう。一万年前まで野生動物だった人類は、生の自然の中で生活することから徐々に離れ、観念の中で暮らすようになってきた。観念とは捏造された同一性の謂(いい)である。

 観念の中で生きている人は、国家が実在すると言い張り、貨幣を実体だと信じ、人知によって自然をコントロールできると自惚れている。もちろん国家や貨幣は人間の脳が生み出した幻想であり、上手に利用すれば役に立つが、命をかけて守るようなものでは更々ない。人間がいなければ、国家も貨幣も存在不能だが、国家や貨幣がなくとも人間は生きてきたのだから、そんなことは当然なのだ。ゴキブリや蛾を見ると卒倒する人は、恐らく、そういう事を理解することを拒否するだろう。

 C02を削減することで気候変動をコントロールできるとの妄想を信じている人は、どう抗っても自分自身の老化をコントロールすることは不可能なことに思い至らないのだろうか。「人間が情熱を傾けるのは解決可能な課題だけである」とはマルクスの言葉である。観念は脳の産物だから、自分の脳内でとりあえず解決できる。しかし、自然は脳の産物でないため解決不能だ。私は観念に対しては傲岸不遜だったけれど、自然に対しては謙虚であったと思う。というわけで本コラムはこれでお仕舞。引き続き、私の愚痴を肴にしたい人は、メルマガ「池田清彦のやせ我慢日記」をお読み下さい。但し有料です。

週刊朝日  2014年5月2日号