今月23日に告示が迫った都知事選に細川護煕元首相(75)が立候補を表明。しかし細川氏が登場するまでの"主役"は、圧倒的な力を持つはずの安倍自民党を手玉に取り、東京都知事に躍り出ようとしていた舛添要一前参院議員(65)だった。

 事実上の政界引退宣言をしたのは、わずか半年前、夏の参院選時だ。「完全に終わった」とみられていたのだが、猪瀬氏の退場で、さして労せず、知事のイスが転がり込もうとしていた。後押ししてくれるのは、かつて自分を引退に追い込んだ自民党だ。

「舛添さんが見ているのは無党派層だけ。東京でいくら組織や団体を積み上げても、知名度のある候補には勝てない。自民党の手元のカードにはそんな候補はいないと踏んでおり、終始、余裕の対応です」(舛添氏周辺)

 嗅覚鋭く正月から、5カ月ぶりにブログを再開。「青いザリガニが生まれました」などホンワカしたそれまでの中身とは打って変わり、東京都や公明党を意識した変化球を投げ続けている。

 1月8日に事実上の出馬宣言。自民党は後手に回った格好だ。

 その自民党は本部と都連、都議会とをきっちり切り分けての対応となった。

 理由は明快。民主党に政権を奪われ、野党に転落した後の2010年、舛添氏は自民党を離れ新党改革を結党し、自民党の党紀委員会で、一番重い「除名」処分となる。過去、党を除名となった者を復党させたり、選挙で支援したケースはない。

 このたび舛添氏の出馬が取り沙汰されてから、党本部には「舛添を支援するなどあり得ない」「他の候補のほうがましだ」といった声が、全国の党員から寄せられている。

 よって党本部は舛添氏の選挙には表立っては関与せず、あくまでも都政とかかわりのある都連、都議団が中心であるという建前を装う必要があるのだ。

「そうは言っても党総裁である安倍首相の了解をとる必要があった。実は舛添支援を一番嫌がっていたのが安倍首相。なぜなら舛添氏は第1次安倍政権時、安倍批判の急先鋒で、あの時の言動が相当ネックになっていたからだ」(自民党関係者)

 当時の舛添氏は参院1期目ながら政審会長に抜擢された。参院のドンであった、当時の青木幹雄参院議員会長(79)のひきがあってのことだった。安倍政権の幹部メンバーでありながら、安倍首相の政権運営が躓(つまづ)きだすと、ここぞとばかりに批判を繰り広げた。

 例えば、参院選(07年7月)では「『安倍首相と一緒に頑張ります』なんて言ったらダメ」と発言▼参院選惨敗後に安倍首相が続投宣言すると、「自民党はショック死状態」と突き放した。人事についても注文をつけ、さすがの安倍首相も周囲に怒りをぶちまけたこともあった。

 ところが第1次安倍改造内閣で厚生労働相に起用されるや、ピタリと批判を止める。その後の福田、麻生内閣でも厚労相に留任、「看板閣僚」として発信力を強めていく。

週刊朝日  1月24日号を加筆・修正