ニッポン放送社員から独立し、脚本家へ。そして、訳あって東京から北海道へ。「北の国から」など数々の名作ドラマを世に送り出した倉本聰さんが自身の転機について振り返る。

*  *  *

 映画を書き、テレビドラマを書きまくっていた昭和48(73)年、NHKから大河ドラマ 「勝海舟」の執筆依頼が持ち込まれました。母は狂喜し、僕自身も大きな仕事に意気込みました。ところが半年後、“事件”は起きました。

 当時、NHKの現場は、モノづくりというよりサラリーマンの世界でした。NHK内部で渦巻いていた労組問題も絡んで、演出家と確執ができ、脚本家が現場に口を出しすぎるという理由で、20人近いスタッフに囲まれて糾弾されたのです。人間性を攻撃するような言葉に打ちのめされた僕は、吊るし上げの場から解放されると、その足で羽田へ。気がついたら札幌にいました。なぜ北海道だったかは自分でもわかりません。

 この一件がなかったら、東京でシナリオライターの道をそのまま歩んでいたでしょう。そしたら、どんなにつまらない人生だったか。

 北海道に来て、書くことへの向き合い方が変わりましたね。いつテレビ界と縁が切れでも怖くないという覚悟ができました。誰に媚びることなく、これからは自分の書きたいものを書こうと。

 それともうひとつ。テーマは深くでも、目線は見てくれる人と同じにしないと、ドラマとして本物じゃないと気づいたのです。

 この思いは、サブちゃん、北島三郎さんと出会ったことで、決定的になりました。当時、北海道でのサブちゃん人気はものすごかった。驚いた僕は人気の秘密を知ろうと、地方公演に同行させてもらったのです。そしたら、サブちゃんと観客とのやりとりが人間対人間になっている。目線が同じなんです。これだ! と思いましたね。僕はこれまで誰に向けてドラマを書いてきたのか。プロデューサーが満足しても、農作業を終えた近所の田中さんが、ひと風呂浴びた後、ビールを飲みながら見てくれなきゃ、何の意味もない。自分が書きたいものを、見る人と同じ目線で書いた最初の作品が富良野を舞台にしたドラマ「北の国から」です。

週刊朝日 2012年12月28日号