前回、夕立の話をしましたが、今年の集中豪雨は前回のような情緒的な話ではおさまらないくらい激しいですよね。
ゲリラ豪雨という言葉もよく聞くようになりました。
でも、よく考えるとこの言葉、少し据わりが悪くありませんか。
「ゲリラ」という言葉の意味を広辞苑でひくと、「(もとスペイン語で小戦争の意。ナポレオン一世のスペイン征服当時、スペイン軍のしばしば用いた戦法に由来する語)奇襲して敵を混乱させるなど、遊撃戦を行う小部隊。また、その遊撃戦法。」とあります。
僕も「ゲリラ」といえば、少人数で奇襲で戦うというイメージでした。
だから、今の絨毯爆撃のような豪雨を「ゲリラ」と呼ぶと、ちょっと首をかしげてしまうのですね。少人数というよりはむしろ物量戦だろうと。
でも、これだけ人口に膾炙しているということは、みんなそれなりに納得する部分があるから使っているのだろうなとも思います。
少人数ではなく、奇襲戦のイメージの方が強いのかな。
「突然、ひどい目にあう」という感覚が、ゲリラを想起するのかもしれません。
でも、スコールとか集中豪雨とか他に使っていた言葉があるのに、なぜわざわざ「ゲリラ」なんて言葉を使うのでしょうか。だったら「テロ豪雨」のほうが、イメージに近い気がするのですが、「テロ」だと生々しすぎるのかもしれませんね。不謹慎といわれるかもしれない。
「ゲリラ」という、ちょっと懐かしめの言葉だから、使っているのかもしれません。
それに多少矛盾をはらんだ言葉の方が、人の心に残るような気もします。
言葉といえば、以前から不思議なのですが、なぜご飯を食べるのに使う器が「茶碗」で、お茶を飲むのが「湯呑み」なのでしょうか。
ご飯を食べるものを「飯椀」と呼び、お茶を飲むものを「茶飲み」と呼ぶことにならなかったのはなぜなんでしょう。
まあ、確かにご飯用は「ご飯茶碗」だからその省略形だと考えてもいいでしょう。でも、だったら後ろの部分だけ残さずに「飯椀」といえばいいじゃないですか。「飯椀」と言わないこともないけれど、普通には「茶碗」と呼んでることの方が圧倒的に多い。
不思議ですよね。
誰か、昔の人が「おい、おかしいぞ。飯をつぐのになんで『茶碗』なんだ」と問題提起しなかったんでしょうか。
いつ頃から「飯椀」のことを「茶碗」と呼ぶようになったのか、気になって時々調べているのですが、なかなかこれはという資料には出会えません。
日本語になじみすぎている外来語も危険ですね。
時代劇を書いている時に、台詞でつい「なにを、さぼっている」とか「敵のアジトを攻めよう」とか書きたくなる時がある。
でも「さぼる」は「サボタージュする」の短縮形だし、「アジト」は「アジテーティング・ポイント」の略。
もとがドイツ語と英語なので、時代劇にはあまりふさわしくない。
気をつけないといけません。
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