『田子倉発電所建設用専用鉄道工事誌』には、飯田線旧線から専用鉄道に転用された橋桁(はしげた)は計13カ所。さらに同年の糠平(ぬかびら)ダム(北海道)の建設によって水没した士幌線清水平~幌加(ほろか)間の旧線から転用された橋桁が計7カ所あると記されている。なお、佐久間・糠平はともに電源開発が建設したダム・発電所である。

 専用鉄道は予定よりも4カ月早い、57年7月20日に開通した。田子倉ダムの完成は60年、総貯水量4億9400万立方メートルのダム湖に、田子倉集落の50戸が沈んだ。当時の集落の様子は、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)に500分の1サイズのジオラマで“高度成長期の歴史のひとコマ”として、再現されている。

 専用鉄道は61年に国鉄に移管されたものの、只見~田子倉間は廃止。旅客列車運行のための諸工事を終えた63年8月20日になって、会津線(只見方)として会津川口~只見間の運行が始められた。只見中線として建設された只見~大白川間の全通は71年8月29日。この日から会津若松~小出間が「只見線」とされた。

 只見中線の建設には、沿線の新潟県魚沼地域を含む衆議院議員選挙の旧新潟3区選出で、全通当時は通商産業(現・経済産業)大臣、翌72年7月に第64代内閣総理大臣の座に就くことになる田中角栄が大きな影響力を発揮した。

 そのため、只見町立只見小学校で開かれた「鉄道只見線竣工全通記念式典」では参列者から、「只見中線でなく只見田中線だ」と、田中をたたえる声があがったと伝えられている。

 只見からは現在、会津川口への代行バスが1日上り7本・下り6本、県境を越えて小出方面へ4往復の普通列車が運行されている。

 只見駅の構内は広いが、旅客用ホームはその片隅に設けられた幅の狭い島式1面2線で、どこか貨物専用線だった名残を留めているようだ。

 只見~田子倉間の廃線跡は、只見駅西側の築堤下部に路盤の痕跡がわずかに確認でき、コンクリート製の橋桁が一つ残るのみだ。

 田子倉ダムの堤体上から見下ろせる発電所に、円形の池のようなものが確認できる。それがかつて設けられていた、4線の扇形車庫をもっていた車両基地の転車台跡だという。

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「目指せ海の五能線、山の只見線」プロジェクト