根拠は、「自分はちゃんとやってきた」ということですね。自分がちゃんとできたんだから、あなたもしなさい。自分はがんばって努力したから、あなたも努力しなさい。きっとできるはずだ、それができないのは、あなたの努力が足らないからだ、という思考の流れです。
でもね、有閑人さん。がんばってもできないことはたくさんあるのです。
僕は小学校から、跳び箱とマット運動、鉄棒が苦手でした。「蹴上がり」という鉄棒の技が、体育の課題に出て、三週間ほど放課後、毎日練習しました。奇跡的に何回か成功しましたが、体育のテストの時はできませんでした。
体育の先生は「努力が足らない」と怒りましたが、僕は毎日、1時間は鉄棒にしがみついていました。
「蹴上がり」を楽々と成功させたクラスメイトは、まったく練習なんてしていませんでした。ただ、生来の運動能力の高さとクラブ活動で鍛えた筋肉が、なんの努力もしないで「蹴上がり」を成功させたのです。
人間には向き、不向きがあって、僕はいまだに数字の計算が苦手で、でも本を読んだり文章を書いたりするのは大好きです。
有閑人さんは、「努力していい大学に行くこと」「立派な会社に勤めること」「仕事で結果を出すこと」という価値観で生きてきたのでしょう。そして、その価値観から見て、「努力してない人」「ふがいない人」「能力の足らない人」にアドバイスをしたくてたまらなくなるのだと思います。
でも、それはその価値観だけの基準です。
有閑人さんは、例えば、釣りをしますか? 有閑人さんに、兄がいて、釣りの名人で、毎週末、一緒に釣りに行ったとします。そして、有閑人さんの餌のつけ方、竿の振り方、リールの巻き上げ方などに対して、いちいち、注意し続けたとしたらどうですか? 楽しいですか?
間違いなく、「自分はなんのために、兄と一緒に釣りをしてるんだろう」と疑問に思うんじゃないでしょうか?
そこで、兄が有閑人さんの釣りの腕をバカにした後、有閑人さんのように「弟たちの不甲斐なさをちょっとからかったこともありましたが、兄弟のことです」と言ったとしたら、納得しますか? 兄弟だから、ということで許されるとは思わないと感じませんか?