「エイズ検査するの怖い人、手挙げて。怖くない? 平気? 平気なの? 平気だったらみんな、検査行ってこいよ~」
芸能界を引退して1年8カ月。トークは現役時代と同じ、いやもしかしたらそれ以上に冴えていた。ところが赤枝さんは、宇都宮で見たこんな飯島さんの姿が、今も心に引っかかっている。
「商店街でコンドームを配っていたときですよ。ふと道ばたに座っていた手相占いの女性に目を留めて、手相を見てもらいに行った。それから寒いなか、かなりの長い時間、その占い師と何かを話し込んでいたんです」
赤枝さんの知る飯島さんは、「気配りのできる繊細な人」。赤枝さんの専門は産婦人科だが、飯島さんは体全般の悩みがあると赤枝さんを何かと頼ったほか、赤枝さんの診療所の屋上で開いていたバーベキューによく顔を出すなど、プライベートでの付き合いもあった。
「うちの町会の人たちもよくバーベキューに来ていましたが、みんな『屈託がなくて明るい、いい子』と、たちまち愛ちゃんのファンになってしまう。でも私の前では、明るいだけの愛ちゃんじゃなかった。ふと何かを考え込んでいるようなこともありましたね」
飯島さんと交わした最後の言葉
亡くなる2~3カ月前から、飯島さんは持病の偏頭痛などが悪化。赤枝さんの診療所に数日間入院して、ここから仕事の打ち合わせなどに出かけることも増えていた。亡くなったとされている12月17日の数日前にも、持病の悪化で赤枝さんの診療所に入院。「もう大丈夫よ~」。そう帰っていったのが、赤枝さんが飯島さんと交わした最後の言葉になった。
飯島さんが亡くなり、渋谷警察署が「病理検査の結果、死因は肺炎」と発表するまでの約2カ月間、その死因をめぐってはエイズ死亡説や自殺など、さまざまな憶測が流れた。
「どちらもありえない。テレビ番組の収録で、愛ちゃん自身が私の診療所でエイズ検査をおこなったこともあった。結果はテレビでも放映されたように、陰性でした」
当時、検査結果を待つ飯島さんのこんな様子も、赤枝さんは覚えている。
「陽性だったらどうするの?と聞いたんです。テレビのカメラが入っているから、逃げも隠れもできないでしょ。そうしたら『いいよ、もしもエイズでも、私はエイズらしく生きるから』ときっぱり言っていた。かっこいいんですよ。性に悩める女の子たちに手を差し伸べるアダルトショップなどの事業開始も目前で、愛ちゃんはその新しい仕事が始まるのを、それはそれは楽しみにしていましたからね。自殺だってありえない」
訃報のあとしばらくは、赤枝さんの診療所は飯島さんのファンの女の子たちの聖地に。「愛ちゃんもここに座ったんですね」と、待合室に座りに来る女の子もいたという。
「でもね、愛ちゃんが亡くなってからの10年間、日本での新規感染者及びエイズ患者は、毎年約1500人ずつ増えているのに、一方で検査をする人は減っているんです。12月1日の世界エイズデーの話題も、年々少なくなっていますよね。これからも愛ちゃんの思いを、今の若い人たちに伝えなければいけないですね」
(文/福光恵)