「ストップエイズなどのイベントに来てくれるようになったのは、私がエイズや性感染症予防のための無料検診をしていることを知って、愛ちゃんが手伝うと言ってくれたのが始まりです。六本木のハンバーガー店などでやっていた街角相談では、2人で机を並べて、女の子たちのいろんな悩みを聞いたこともありました」
04年からの5年間、赤枝さんは若い世代を対象に、性感染症予防のためのリーダーを育てる勉強会も開いていた。飯島さんは亡くなるまで“講師”として、その勉強会にもたびたび参加していたという。
「勉強会では、男の子が女の子を守らないということを、いつも言っていましたね。女の子はいつも思いやって、男にだまされちゃだめよ、と。一方男の子には、厳しいことも言っていましたよ。例えば……男はセックスするまでは気を遣って、おいしいもの食べて楽しいところに連れて行ってくれる。でもセックスしてしまうとあとはグーグー。『あれはよくないよ。楽しいところには、セックスしてから行けばいいじゃん』なんてね」
「そこのお母さん!」
週刊朝日の連載を書籍化した『生病検査薬≒性病検査薬』には、飯島さんのたっての希望で、赤枝さんと2人でパッケージから返送方法まで考えた本物の「性病検査キット」を、一部に付録として付けた。書籍の発売記念で掲載された赤枝医師と飯島さんとの対談で、飯島さんはその理由を語っている。
<<前の本『プラトニック・セックス』を買ってくれたのが女子高生だった。だから何か、印税のお返しができないかなと>>
(「週刊朝日」2003年7月4日号「私が性病検査薬配ったわけ 対談・飯島愛VS.赤枝恒雄院長」)
飯島さんが亡くなったとされる2008年12月17日ごろの、わずか10日ちょっと前の12月6日にも、飯島さんは赤枝さんとともに、栃木県宇都宮市でおこなわれたストップエイズのトークショーにも参加している。
私も、飯島さんが始める予定だった新会社のサイトのコンテンツを作るため、この日の飯島さんの宇都宮行きに同行。「そこのお母さん!いつ必要になるかわかんないから、持って行って」。そんな軽口を叩きながら飯島さんは街角に立って、ご機嫌で道行く人にコンドームを配っていた。赤枝さんとのトークショーでは下ネタも交えた絶妙トークが、会場を沸かせた。