飯島愛さんが亡くなったとされるおよそ10日前の2008年12月6日、栃木県宇都宮市で催された赤枝恒雄医師とのストップエイズのトークショーにて。飯島さんは軽妙なトークで会場を沸かせ、はつらつとしていたのだが……(写真提供/赤枝医師)
飯島愛さんが亡くなったとされるおよそ10日前の2008年12月6日、栃木県宇都宮市で催された赤枝恒雄医師とのストップエイズのトークショーにて。飯島さんは軽妙なトークで会場を沸かせ、はつらつとしていたのだが……(写真提供/赤枝医師)
この記事の写真をすべて見る

 タレントの飯島愛さんが2008年12月に亡くなって、ちょうど10年が経つ。突如訪れた飯島さんのミステリアスな死は、当時、死亡日時や死因の曖昧さからメディアも連日のように取り上げ、憶測が飛び交った。

【写真特集】亡くなる数日前のトークショーの模様や、ここでしか見られない飯島愛さんの素顔はこちら

 飯島さんは人気絶頂だった01年から03年までの約2年の間、「週刊朝日」で「飯島愛の錦糸町風印税生活」を連載していた。のちに『生病検査薬≒性病検査薬』(朝日新聞社)のタイトルで書籍化。当時あまりオープンにされることのなかった「性感染症予防」を広く訴えていた。AERAdot.では、連載中から亡くなる間際まで飯島さんと付き合いがあった担当編集者・福光恵が、交流のあったタレントや芸能関係者、親族らをあらためて取材。飯島さんの知られざるエピソードを自らの体験などを踏まえ掘り起こした。第2回は、飯島さんが亡くなる数日前に会っていた医師、「赤枝六本木診療所」の赤枝恒雄院長だ。

*  *  *

<<十年くらい前に、ニューヨークにいる友達が、どんどん知り合いがエイズで死んじゃうって言ってたことを思い出した。日本も、そろそろ学校とかで、ギョウ虫検査みたいにエイズ検査をやらないといけないと思う>>
(著書『生病検査薬≒性病検査薬』(朝日新聞社)の「エイズ・デー」より)

 まるで思いつきのような言い方だが、意外にそうではなかった。飯島愛さんは実際にも、ストップエイズなど性に関する啓蒙イベントに、積極的に参加していた。2004年には、厚労省やエイズ予防財団などが12月1日の「世界エイズデー」の前におこなったトークイベントに参加。こうした活動を始めたのは、飯島さんの芸能界時代からのかかりつけ医で、六本木の街角での性に関する無料相談室などで知られる「赤枝六本木診療所」の院長、赤枝恒雄医師との交友がきっかけだった。

「こうやって、いつもおもしろい手書きのメモを残してくれてね」

 六本木の診療所を訪ねると、赤枝さんは飯島さんの写真や手紙、雑誌の切り抜きなどをまとめたスクラップブックから1枚のメモを取り出して、目を細めた。「(台風が来て)たいへんじゃじゃじゃじゃーん」という文字の横に、指揮棒を振るベートーベンの似顔絵が描いてある。うまい。

次のページ
亡くなるまで“講師”として