日産自動車を再生させたカリスマ経営者、カルロス・ゴーン容疑者(日産自動車会長)が金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)で逮捕され、その評価は暗転した。「絶対権力は絶対に腐敗する」(歴史学者アクトン)の警句を絵にかいたような展開だ。なぜカリスマ経営者は道を踏みはずしたのか。またそれを日産経営陣は許したのか。
1999年、ゴーン氏が瀕死の状態の日産に乗り込んできたとき、日産社員らに発したメッセージは「日産を救うのは日産である。ルノーの人たちは日産が自分の道を見いだす手助けをするために、ここにいるのだ」だった。進駐軍として来日したのではないと強調し、まずは現場を回り、日産社員の話を聞いた。来日後3カ月で数百の部署や事業所を訪問し、数千人に会い、対話した。まずは日産の現実を見定めようとしたのだ。それまでの日産経営陣がゴーン氏ほど現場の声を聞いて回ったことはなかった。ゴーン氏はまだその頃は専横的ではない対話型の経営者の姿を見せていた。
日産リバイバルプランが策定されたのが1999年10月。その翌年、ゴーン氏は社長兼COO(最高執行責任者)に就任する。ゴーン氏は当時、「コストカッター」として名をはせ、ムダを削っていた。日産で電気自動車の開発には不可欠なリチウムイオン電池の開発をしていた担当者は「電池はパワーの源泉」と電気自動車用の電池開発継続の重要性をゴーン氏に説いた。ゴーン氏は話を聞いたうえで「研究を続けろ」と言い放った。まだ当時は電気自動車への期待が大きくない時代で電池開発はお荷物とみられており、開発中止が社内では取り沙汰されていた。もしもその判断がなければ今、日産は日本で電気自動車の販売実績でトップを走ってはいない。
11月19日夜の会見で西川広人社長は「初期においては非常に大きな改革をしたのは事実だが、その後は功罪両面ある」と徐々にゴーン氏の経営者としてのあり様が変わっていったと話した。そのうえで「振り返ってみるとゴーン会長は2005年にルノーと日産のCEO(最高経営責任者)を兼務することになった。我々は日産を率いてくれたゴーン会長がルノーのCEOも引き受けてくれるのはいいことじゃないかと考えたが、その先を考えなかった」と話した。