品川線と同時開業した金杉線を品川駅前に向かう1系統の都電。国鉄(現JR)東海道新幹線の姿も見える。高架橋の先に見える新橋五丁目停留所にも先行する都電の姿が写っている。新橋~新橋五丁目(撮影/諸河久:1967年9月12日)
品川線と同時開業した金杉線を品川駅前に向かう1系統の都電。国鉄(現JR)東海道新幹線の姿も見える。高架橋の先に見える新橋五丁目停留所にも先行する都電の姿が写っている。新橋~新橋五丁目(撮影/諸河久:1967年9月12日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回も「都電ナンバーワン」の視点で展望した路線編として、都電の最古と最新の路線、停留所間隔が最長と最短の区間の話題にスポットを当てた。

【本文中に出てくる50年以上前の貴重な写真はこちら(計5枚)】

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 写真の撮影は1967年9月。その3年前となる1964年10月に開業した東海道新幹線と、この撮影の直後の1967年12月に廃止となった1系統の都電が一緒に写っている。この1枚の写真から、時代の移り変わりが見て取れる。

 東京に初めて路面電車が登場したのは1903年8月で、当初の運転区間は品川線(八ッ山~薩摩原)と金杉線(薩摩原~芝口)だった。この路線は1882年から新橋~日本橋を皮切りに路線を延伸した東京馬車鉄道を電化して、「東京電車鉄道」に改称したものだった。

 前述の東京馬車鉄道は1904年に全線が電化され、後の1系統のルーツとなる八ッ山(品川)~薩摩原(三田)~芝口(新橋)~本町~浅草橋~雷門~上野~本町の運転系統が確立した。東京電車鉄道は1906年に東京鉄道会社に併合。五年後の1911年に東京市に買収され東京市営になった。1943年から東京都営になり、以降「都電」の愛称で親しまれている。

■新橋駅の旧称は「烏森駅」

 冒頭の写真は、京浜第一国道(国道15号線)に面したビルの屋上から、眼下の金杉線を走る1系統品川駅前行き都電と国鉄東海道新幹線を写した一コマ。金杉線の開業当時、国鉄新橋停車場は画面左側の汐留にあり、このあたりに新橋停車場前停留所が所在した。金杉線を跨ぐ国鉄高架線が建設されたのは1909年12月で、画面右端奥に山手線烏森駅(1914年新橋駅に改称)が設置され、当初から電車運転が実施された。

 次のカットは品川駅前で折り返しを待つ1系統三田行きのPCC車だ。祭日の撮影で、前面に交差した日章旗を掲揚している。

品川駅前で折り返す1系統三田行きのPCC車。画面左上空に品川駅前~池袋駅前を結ぶトロバス102系統の架線が見える。国道上にはUDエンジンを搭載した民生産業製のコンクリートミキサートラックが走っている。(撮影/諸河久:1963年3月21日)
品川駅前で折り返す1系統三田行きのPCC車。画面左上空に品川駅前~池袋駅前を結ぶトロバス102系統の架線が見える。国道上にはUDエンジンを搭載した民生産業製のコンクリートミキサートラックが走っている。(撮影/諸河久:1963年3月21日)

 都電の左側で乗車扱いをしているのは、大井競馬場前~目黒駅前を結ぶ3系統(後年「品93系統」に改番)の都バスで、矢印の方向指示器が懐かしい。品川駅前は、開業時には品川停車場前と呼称されていた。写真の折り返し線は品川駅前停留所から178m延伸された地点だった。ここから500m西進した場所に、開業時の起点である八ッ山停留所が所在した。

■最新の路線は僅か86m

 いっぽう、都電の最新路線は、1958年5月29日に延伸開業した猿江線の錦糸堀~錦糸町駅前で、その距離は僅か86mだった。国鉄総武線錦糸町駅や錦糸町駅前バスターミナルからの乗り換え客にとって、一刻を争う朝の通勤通学時間帯には僅少の延伸でも値千金だった。
 

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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