いまは首都高の高架が塞ぐ、55年前「護国寺」の空 都電の街からの激変ぶり (1/3) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

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いまは首都高の高架が塞ぐ、55年前「護国寺」の空 都電の街からの激変ぶり

連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」

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諸河久AERA#AERAオンライン限定#鉄道
秋の陽が西に傾き日出通りは“日没通り”に。40パーミルの小篠坂を力走する17系統池袋駅前行き7000型。護国寺前~大塚坂下町(撮影/諸河久:1965年11月18日)

秋の陽が西に傾き日出通りは“日没通り”に。40パーミルの小篠坂を力走する17系統池袋駅前行き7000型。護国寺前~大塚坂下町(撮影/諸河久:1965年11月18日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は文京区・護国寺から小篠坂(こざさざか)を上り池袋駅前に向かう都電だ。

【55年が経過した現在は激変!? いまの同じ場所の写真や当時の貴重な別カットはこちら(計4枚)】

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 本に関わる仕事をしたことがある人なら、「護国寺」と聞くと講談社などの出版社を思い浮かべるかもしれない。付近には、お茶の水女子大学しかり、幼稚園から大学まで学校が多く、学生が多い街でもある。

 そして、坂が多い。

 冒頭の写真を見てほしい。17系統の都電が護国寺前から右にカーブを切って、護国寺の墓所を右に見ながら小篠坂を上って行くシーンだ。その昔、付近一帯が笹薮であったところからこの名がついたといわれ、小笹坂とも呼ばれる。

 隣接する大塚坂下町(後年大塚六丁目に改称)までは、40パーミルの上り勾配が続いている。都電が走る日出(ひので)通りは護国寺の仁王門に隣接する日本大学豊山中学校・高等学校の通学路となっている。

 この写真を見た日大豊山校出身で、日大OBの同輩は「体育の時間になると護国寺の広い墓地内をマラソンさせられ、この小篠坂を駆け下って帰校したものだ。ラストの区間が上り坂じゃなくて、下りで良かったよ」と在校中のエピソードを語ってくれた。

首都高速5号池袋線の開通で上空に蓋をされた日出通り。背景中央の白い建物が区立青柳小学校の校舎で、その背後に日大豊山校の校舎が聳える半世紀後の近景(撮影/諸河久)

首都高速5号池袋線の開通で上空に蓋をされた日出通り。背景中央の白い建物が区立青柳小学校の校舎で、その背後に日大豊山校の校舎が聳える半世紀後の近景(撮影/諸河久)

 次の写真が、半世紀ぶりに訪れた小篠坂の近景だ。首都高速5号池袋線の高架橋が上空を覆っていた。旧景の日出通りはネットフェンスの向こう側で、当時と同じ場所からの撮影は不可能だった。

 やはり日大豊山校出身の後輩は「電車道であった日出通りに並行して首都高速道路5号池袋線の工事が進捗してきた時代、都電の軌道は仮の専用軌道に移設されていた」と語ってくれた。都電池袋線の廃止が1969年10月で、首都高速5号線は同年12月に護国寺~北池袋が開通しているから、都電路線廃止時に仮の軌道が復旧されたか否か、気になるところだ。

■軌道は戦時下の物資不足で調達

 護国寺前はその名のとおり「真言宗豊山派大本山護国寺」の門前町である。護国寺は五代徳川将軍綱吉が天和元(1681)年、生母桂昌院の発願により建立された古刹(こさつ)だ。この門前に御殿女中の「音羽」と「青柳」を住まわせたことに因んで、音羽町と東西青柳町の地名になった。1966年の町名改正で音羽町は音羽になり、東西の青柳町は名称が廃止されて、区立青柳小学校にその名を残している。


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