はりまや橋交差点のダイヤモンドクロッシングに差しかかる後免町方面行きのトデン。右奥には桟橋通線のトデンが発車待ちしている(撮影/諸河久:1968年5月2日)
はりまや橋交差点のダイヤモンドクロッシングに差しかかる後免町方面行きのトデン。右奥には桟橋通線のトデンが発車待ちしている(撮影/諸河久:1968年5月2日)

 鉄道写真家の諸河久さんが路面電車を撮影するようになったのは56年前の高校生の頃。この時代にカメラなどの大きな機材を背負って全国をめぐるようになった。およそ半世紀前の観光地や地方都市を走った路面電車と街並みは、東京とは異なる文化と土地柄が写し出されていて味わい深い。前回に引き続き夏季特別編として、諸河さんが高校や大学の学生時代に撮影した約50年前の観光地や都市部の貴重な写真をお届けする。今回は、土佐の高知を走る「とさでん交通」(旧・土佐電気鉄道/以下土佐電、トデン)の路面電車だ。

【俯瞰したダイヤモンドクロッシングはこんなに美しい! 別カットなど当時の貴重な写真はこちら(全5枚)】

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 ダイヤモンドクロッシング。その言葉の響きからして壮麗さを感じ取る。

 路面電車の軌道が平面で交差する線形のことをダイヤモンドクロッシングと呼んでいる。かつては津々浦々の路面電車に見られたが、現在では数カ所しか残存しない。高知市・はりまや橋交差点のダイヤモンドクロッシングもその一つだが、十字にクロスする各辺に渡り線が設けられ、他に比類のない、堂々とした線形をしている。右左折する電車がダイヤモンドクロッシング上で重複するシーンが稀に見られ、これを「トリプルクロス」と呼んでいる。

 写真は、はりまや橋交差点の南側停留所から伊野・後免線を走る後免町方面行き「トデン」(地元の方は土佐電気鉄道をトデンの愛称で呼んでいる)を撮影。手前の路線が桟橋通線で、画面右奥で発車を待っているトデンの後方に、はりまや橋がある。この200型はトデン最初の低床式ボギー車で、東京都電6000型をモデルにして1950年に登場した。ちなみに、1957年に増備した後継の600型は、東京都電7000型をモデルにしており、「土電」と「都電」は双方の読みが「とでん」であるためか、車両の形態で縁が深いのが面白い。

「写真家たちの日本紀行」のロケーションで俯瞰撮影したダイヤモンドクロッシングの全貌。はりまや橋(撮影/諸河久:2010年3月8日)
「写真家たちの日本紀行」のロケーションで俯瞰撮影したダイヤモンドクロッシングの全貌。はりまや橋(撮影/諸河久:2010年3月8日)

「BSジャパン」で2010年に放映された「写真家たちの日本紀行」出演時に、この交差点を特別に取材許可を得たビルの屋上から俯瞰(ふかん)撮影を試みた。ダイヤモンドクロッシングの美しい線形が一目瞭然で理解できるだろう。

 南国土佐の高知市内に路面電車が走ったのは明治期の1904年5月だった。土佐電気鉄道による敷設で、日本で10番目の路面電車となった。当初は市内中心部に、現在の伊野・後免線/桟橋線の前身である本町線と汐江線が開通。その後、伊野線(はりまや橋~伊野)、後免線(はりまや橋~後免町)、桟橋線(高知駅前~桟橋五丁目)の三線を全通させ、総営業距離は25300mに及んだ。軌間は1067mm、電車線電圧は600Vを採用。1941年に、後免~安芸の安芸線を敷設した高知鉄道と国策合併するなどの曲折を経て、1948年から再び土佐電気鉄道の社名に戻った。戦後になって安芸線が電化されると、高知市内から路面電車による鉄道線(安芸線)への直通列車運転が始まった。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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