午後10時50分を回ったころ、新橋方面が明るくなり、装飾電球を灯した1系統の車列が近づいてきた。銀座四丁目交差点は大渋滞で、車列は手前の銀座五丁目に差しかかったところで停まってしまい、目前に千載一遇のシャッターチャンスが巡ってきた。 銀座七丁目~銀座四丁目(撮影/諸河久:1967年12月9日)
午後10時50分を回ったころ、新橋方面が明るくなり、装飾電球を灯した1系統の車列が近づいてきた。銀座四丁目交差点は大渋滞で、車列は手前の銀座五丁目に差しかかったところで停まってしまい、目前に千載一遇のシャッターチャンスが巡ってきた。 銀座七丁目~銀座四丁目(撮影/諸河久:1967年12月9日)

 鉄道写真家の諸河久さんが4年半にわたってお届けしてきた50年前の都電とその街並みを振り返るこの連載は、今回が最終回。このコラムで紹介してきた写真はこれまで諸河さんの著書などで掲載されることはあったものの、ウェブニュースではほぼすべてが初公開だった。撮影日なども書き入れて記事を配信してきたが、これは現在75歳の諸河さんが高校生の頃から撮り始めた写真のフィルムを保存する際に、撮影年月日などの情報を記録し、細かく管理していたから可能になった。当時のフィルムを筆者自らがデジタルデータ化し、ニュースサイトAERA dot.で配信してきた。そのため、普段は鉄道や路面電車に興味がない読者の目にも留まることになり、多くの読者から当時の東京の美しさや「都電を復活してほしい」といったお声までいただいた。

【55年前、都電銀座線の最終日。当時の貴重な写真はこちら(計4枚)】

 2018年6月に始まった連載の初回は「銀座四丁目」の光景だったが、今回のコラムも銀座が舞台。最終回にふさわしい、1967年12月9日に銀座通り(現・中央通り)から姿を消した都電銀座線の最終日を回顧しよう。

*  *  *

 都電ファンにとって、1967年12月9日は忘れ得ぬ日だ。

 愛好家の間で「あの日は何をしていた?」という会話が常套句になるくらい、忘れられない一日となった。

銀座通りを走る都電の最後

 銀座通りを走る都電銀座線の最終運行日となったこの日。朝からよく晴れた師走の一日だった。冬の陽が暮れた銀座の街角は、週末の土曜日と重なって都電に別れを惜しむ人波で溢れていた。

 筆者は夜間の都電撮影に備えて、増感仕様のコダック・トライXフィルムを装填したアサヒペンタックスを携えて、夜の帳が下りた銀座通りに出かけた。

 冒頭の写真は、時計の針が間もなく午後11時を指すころ、銀座五丁目の交差点から撮ったPCC車5501号と5502号の1系統“お別れ装飾電車”の車列だ。その後ろには4系統の装飾電車も続いていた。先頭の5501号の前面に「銀座を走って64年 都電よごくろう様」と車側にも「ながい間ご愛顧ありがとうございました」のメッセージが掲示されていた。

 銀座四丁目の交差点には別れを惜しむ約4000人が参集したため、都電撮影はもとより、身動きすらできない状況だった。筆者は一計を案じ、人波で難渋する銀座四丁目交差点の撮影を回避し、撮影地を銀座四丁目から一区画新橋寄りの銀座五丁目交差点に変更したところ、群衆や自動車に邪魔されることなく装飾電車の全容を捉えることができた。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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