1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は「三越百貨店・銀座支店」屋上から撮影した銀座の都電を「デパートの屋上から失礼します」と題して紹介しよう。
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筆者は1963年に赤坂に校舎があった日大三高に進学している。この年は翌1964年に開催される「東京オリンピック」に向けた緊急工事が進捗しており、都心部はすべて工事現場の様相を呈していた。
秋季の学内文化祭で「オリンピックで変貌する東京」というテーマ展示の撮影班に指名された。撮影で校務外出という授業免除の許可証を貰い、登校日にも拘わらず愛機・アサヒペンタックスを携行して、都心のロケ地に向った。その時に三越百貨店・銀座支店(以下銀座三越)の屋上から俯瞰撮影した都電が、今日では貴重な記録となった。
デパートの屋上から失礼します
冒頭の写真は銀座三越屋上から北西方の数寄屋橋方面を写した一コマだ。眼下の晴海通りを走る11系統築地行きの都電に敬意を表して「デパートの屋上から失礼します」という心境でシャッターを切っている。
都電築地線の敷設された晴海通りは、1962年9月に着工した営団地下鉄(現・東京メトロ)日比谷線延伸工事の真っただ中だった。延伸工区の東銀座~日比谷間はオープンカット工法が用いられたため、地表部は「板っぱり道路」と揶揄された木材で覆われていた。雨の日は滑るし、木板の隙間にハイヒールの踵をとられるなど、通行人からの苦情が絶えなかったようだ。地下で掘削された残土を搬出する櫓(やぐら)も林立し、絶え間ないダンプカーの出入りで晴海通りは騒然としていた。
当日は曇天だったので遠景がやや不鮮明だが、東海道新幹線の架橋工事が始まった頃で、国鉄在来線の高架橋には山手線を走るカナリヤ色の国電が写っていた。