JFA夢フィールドで。撮影中も道行く人に「サッカーをよろしくお願いします」と気さくに声をかける(撮影/今祥雄)
JFA夢フィールドで。撮影中も道行く人に「サッカーをよろしくお願いします」と気さくに声をかける(撮影/今祥雄)

 サッカー男子日本代表監督、森保一。取材を申し込んだのは2020年、東京五輪に合わせた掲載の予定だった。未曽有のパンデミックが世界を覆い、サッカー界も困難な状況に置かれた。それでも結果は求められる。かつて無名だった選手は、どのようにしてワールドカップ(W杯)出場を決めた代表監督になったのか。「ドーハの悲劇」と同じ地で今年11月、W杯が開幕する。

【写真】選手とコミュニケーションをとる森保一監督

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 W杯カタール大会出場を決めてからのインタビューは森保一(もりやすはじめ)(53)らしい一声から始まった。「皆さんにご心配をおかけしました。まだ越えたのは最低限のハードルですけど」。日本人代表監督としては、初めてW杯予選の全ての試合の指揮を執って勝ち抜いた。しかし、誇らしい言葉は何ひとつ口にせず、気遣いから、会話を紡いだ。

「対面の取材も2年、待ってもらいましたね」

 フランス、南アフリカと二つのW杯で指揮を執った元代表監督岡田武史は常々、「日本代表監督は、日本人がやるものではない」と発言していた。代表監督に降りかかる重圧は想像を絶する。テストマッチでも、負けが込めば、脅迫状が届き、雲霞(うんか)のごとく湧き上がるメディアでの批判は嫌でも耳目に入る。しかし、逃げ帰れる場所はどこにも無い。ここ2年は、未曽有のパンデミックが地球上を覆い、ロックダウンがサッカー界をも縛った。世界中で試合が中止になり、チームを預かる者としては、極めて困難な状況に置かれた。それでも代表は結果を求められる。実際に森保は叩(たた)かれ続けてきた。W杯最終予選、初戦でオマーンに苦杯をなめ、3戦目のサウジアラビアに敗戦を喫した際には、解任を叫ぶ声もピークに達した。だが、本人はその辛苦や不満を周囲に感じさせなかった。合宿どころか、選手の視察さえままならなかったころ、森保の日常はどのようなものであったのか。 

 ヘッドコーチの横内昭展(あきのぶ)は言う。

「ロックダウンを嘆くようなことは一切無かったですね。外出ができない、選手とも会えない、それは自分たちではどうしようもできないこと。それなら、それを受け入れて、今、やれることをやろうと。過去の試合や選手のビデオを徹底的にスタッフと見まくっていました」

■“底辺”からトップを経験 「聞く力」が周りを動かす

 猛烈なプレッシャーのかかるホスト国の五輪代表監督との兼務に加え、その開催も1年延期された。組んでいた強化プランは白紙に戻され、予測できなかった事態が次々と起こるが、それでも泰然自若としていたと周囲のスタッフは言う。

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