哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。

哲学者 内田樹
哲学者 内田樹

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 見知らぬ人がメールやSNSでいきなり「お前」と呼び捨てにして罵倒の言葉を浴びせてくることが時々ある。いつの間にか日本ではそれが「ふつう」のことになったらしい。

 私が大学の管理職をしていた時に学生の親からいきなり「謝れ」という電話がかかってきたことがあった。「何について謝るのでしょうか?」と訊(たず)ねたのだが、教えてくれない。「保護者がこれだけ怒っているのは、大学に非があるからに決まっているだろう。いいからまず謝れ。話はそれからだ」と言い張るので、うんざりして電話を切ってしまった。

 この人は「ふつう人間は『よほどのこと』がない限り激怒はしない。しかるに私は激怒している。ということは私の怒りには十分な合理的根拠があるからである」と推論することを私に求めていた。

 そう思って見ると、「私が怒っているのは私が正しいからである」という奇怪なロジックを乱用する人が周りによくいる。銀行の窓口でも、コンビニのレジでも、信じられないほど不作法な口のきき方をする人たちにしばしば出会う。

「正しい要求がなかなか聞き届けられない時、人は自制心を失うことがある」という命題は経験的には真である。

 だが、その逆の「不作法にふるまっている人は正しいからそうしているのだ」という命題は成り立たない。

「不作法」と「批評性」は相関しない。それを忘れている人が多い。

 実は、私も若い頃は真に批評的な人は「寸鉄人を刺す」ような攻撃的文体を巧みに操るものだと信じていた。鋭い批評性と切れ味のよい罵倒が表裏一体のものであるなら、まず「罵倒語法」を習得するのが捷径(しょうけい)である(批評的知性の涵養(かんよう)には時間がかかりそうだから)。

 でも、そのうちに不作法の強度と言明の真理性の間には何の相関もないことに気づいた。逆に、卓越した知性は「怒り」のような感情資源を動員しなくても人を説き伏せることができるということを学んだ。以来、人の文章を読む時には、「批評的でありながら礼儀正しい言葉づかいができる」かどうかを基準に採るようにしている。

内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数

AERA 2022年6月13日号

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内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数

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