越前堀薬局、香取鮨、翠江堂など、商家が軒を連ねる越前堀の風情に都電が良く調和する。越前堀(撮影/諸河久:1965年9月5日)
越前堀薬局、香取鮨、翠江堂など、商家が軒を連ねる越前堀の風情に都電が良く調和する。越前堀(撮影/諸河久:1965年9月5日)

 写真は越前堀停留所で発車を待つ5系統目黒駅前行きの都電。9月の第一日曜日の撮影で、残暑が厳しかったことを記憶している。開業時に越前堀停留所は東湊町と呼ばれ、1931年に越前堀二丁目に改称され、1950年から越前堀となった。

 八丁堀線の開業は1920年で、当初は81系統(青山六丁目~永代橋)と111系統(天現寺橋~永代橋)の2系統が運行され、1931年には7系統(青山六丁目~永代橋)となった。さらに、戦時中の1944年には29系統(亀戸天神~永代橋~馬場先門)に変更され、永代橋を渡る洲崎線から都電が乗り入れた。終戦時には運行が休止されていたが、1948年に復旧して5系統(目黒駅前~永代橋)が運行されている。

 停留所の背後には、右から松下看板店、越前堀薬局、香取鮨、翠江堂和菓子店、更科蕎麦と、下町らしい風情の商家が盛業していた。画面左端には中央学院大学中央高等学校に改名後、江東区亀戸に移転した中央高等学校・中央商業高等学校の校舎があった。

新川二丁目(旧越前堀)交差点の近景。20年前に手前を横切る八重洲通りが拡幅され、高層化された新川の街並み。旧景に写る長閑な風情は昭和の憧憬となった。(撮影/諸河久:2022年1月16日)
新川二丁目(旧越前堀)交差点の近景。20年前に手前を横切る八重洲通りが拡幅され、高層化された新川の街並み。旧景に写る長閑な風情は昭和の憧憬となった。(撮影/諸河久:2022年1月16日)

 越前堀停留所の近景が次のカットで、越前堀薬局、香取鮨、翠江堂が半世紀を経て健在なのが嬉しかった。明治期創業の老舗である香取鮨の杉山健太郎店主にお話を伺うと、『隅田川に架橋された中央大橋が開通する1993年ころ、東京駅から南下する八重洲通り(都道463号線)の拡幅工事が施工され、旧景の角地にあった松下看板店と越前堀薬局の一部がセットバックされ、立退いた松下看板店は鍛冶橋通りの北側に移転した』とのこと。余談になるが、「香取鮨」の屋号の由来は、お召艦として名を馳せた帝国海軍軍艦「香取」(英国ヴィッカース造船製)が進水した1905年7月4日と同時に開業したことに因んでいる。

震災復興で路線変更された終点永代橋の今昔

 次の写真は永代橋停留所を発車して目黒駅前に向かう5系統の都電。路線がやや上り勾配になっているのは、画面手前を流れていた新川に架かる旧東新川橋の橋跡によるものだ。撮影時の町名表示地図によると、1949年12月に埋め立てられた新川の北東側(画面左奥)が新川二丁目で、南西側(画面右手前)が越前堀三丁目になっていた。画面右端のガソリンスタンドは出光興産隅田石油で、その奥の古いビルは三起工業永代橋工場の建物と推察する。

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