被服支廠で働いていたという切明千枝子さん。穴が開いて血や脂のついた軍服を洗い、補修でしのいでいたという(撮影/高瀬毅)
被服支廠で働いていたという切明千枝子さん。穴が開いて血や脂のついた軍服を洗い、補修でしのいでいたという(撮影/高瀬毅)

 数々の被爆遺構が残る広島市には、軍事都市だったことを示す遺構も多く存在している。兵士の装備品を製造・保管していた施設「旧日本陸軍被服支廠(ししょう)」もその一つ。戦争の記憶を色濃く残す施設として、注目されている。AERA 2021年8月9日号で取材した。

*  *  *

 被服支廠が注目されているのは、爆心地から5キロメートル以内に残る86の被爆建物の中でも最大級だという点だ。爆心からやや距離があり原爆でも破壊されなかった。そのため、被爆直後は大勢の負傷者が押し寄せ、「臨時救護所」となり、多くの被爆者が苦しみ、亡くなった。そういう歴史の現場であると同時に、「軍都広島」を物語る施設でもあるからだ。

■建物があればこそ残る軍需産業の記憶

 もともと広島は、軍とともに発展した町だ。

 広島城内には旧日本軍の陸軍第5師団が置かれ、大陸進出の拠点となった。日清戦争(1894~95年)では大本営が広島城内に設けられ、明治天皇も移り住んだ。帝国議会を開設し、伊藤博文や山縣有朋ら有力閣僚も市内に居住した。一時的に首都機能が移転したのだ。そんな地方都市は広島しかない。陸軍第5師団の基幹部隊だった第11連隊は、大陸進出の先陣を切った。被爆地としての象徴が原爆ドームなら、被服支廠は、広島のもう一つの「軍都」の顔だ。

 建設は1913年。多くの市民が働いていた。『陸軍の三廠』によると、シベリア出兵時の22年には、男工430人、女工850人の計1280人が勤めていた。子供のころ被服支廠の近くに住んでいた被爆者の切明千枝子(91)は、当時を鮮明に覚えている。

「朝、道路いっぱいになって通勤してくるたくさんの工員さんの、ザクザクという足音で目を覚ましよりましたね」

 切明も学徒動員で、被服支廠へ働きに行っていたことがある。忘れられないのは43年のことだ。

「血や脂が付いて、あちこち穴の開いた軍服を補修するようになったんです。洗うと水槽に血が流れ出す。干してアイロンをかけて繕い、軍服として出す。こんなことで戦争に勝てるのかと思いましたね」

次のページ