当時、羽田孜内閣が倒れて自民党は1年足らずで政権に返り咲いた。首相指名を巡り、森氏は社会党右派の山口鶴男氏(故人)から、社会党左派を取り込めばうまくいくという助言を受け、調整を進めた。

 首相在任中から築いていたロシアのプーチン大統領との良好な関係も森氏の存在価値を高めているようだ。民主党政権時代には、当時の野田佳彦首相が森氏を頼り、ロシアへ異例の“野党特使”を送ろうとしたほどだ。

「脇が甘く失言もありますが、こうした人脈は森さんの強みとなっているのでしょう」(尾藤さん)

 前出の有馬さんによれば、森氏の人脈は政財界や芸能界、スポーツ界など、ありとあらゆるところに張り巡らされているという。ここでは特にスポーツ界での森氏の存在について触れておきたい。

■政治とスポーツの距離

 スポーツジャーナリストの生島淳さんは、森氏がスポーツ界で影響力を増していった背景にあるのが「スポーツと政治の親和性」だと指摘する。

 それを理解するために、40年前の出来事に触れておきたい。80年、ソビエトで開催されたモスクワ五輪では、前年のアフガン侵攻で、冷戦状態にあった米国がボイコットを世界に呼びかけた。対応は真っ二つに割れ、日本は米国に同調した。

 当時、JOCは文部省所管の日本体育協会(現日本スポーツ協会)の中の一組織だった。国会議員も協会長を務めてきた経緯から、政治の影響も受けやすかった。生島さんによれば、その反省から、スポーツは政治から距離を置いて独立性を保つ流れがいったん強まり、JOCも89年に協会から独立。ところが、政治側はスポーツと手を組んでも損はなく、スポーツ側は競技力を保つために政治の力が必要だったという。

「利害が一致して再び距離を詰めていったのが世紀の変わり目くらいです」(生島さん)

 文教族でスポーツ愛好家の森氏が日本体育協会長に就いたのは05年だ。その頃にはすでに両者の再接近が完成していたといい、16年の五輪招致に動いていた時期だった。「一連の時流に乗って森氏が影響力を増していったのだと考えられます」と生島さんは考える。

 コロナ禍に振り回されたあげく、組織委トップの交代劇でミソがついた東京大会。トップ交代で好転するか。「五輪の価値が随分と傷つけられたのが残念」。生島さんの言葉は、森氏や組織委に届くのだろうか。(編集部・小田健司)

AERA 2021年2月22日号