「分離派建築会の運動は長く忘れられてきましたが、時代が一周して、彼らの活動が評価される時期が戻ってきている気がします。たとえば環境問題への関心は、今や一般的なものですが、分離派も植物をモチーフにしたアールヌーボーの後の時代に現れ、同じ問題意識を持っていました。近代化、機械化が100年続いた現代からみても、分離派の議論には示唆的なものがあると思います」

 そう語るのは、「分離派100年研究会」の代表であり、京都大学教授の田路貴浩さんだ。

■ロダンなど彫刻も影響

 分離派は、ロダンなどの彫刻に影響を受けながら習作に励み、建築に取り込んだ。こうした影響の下にデザインされた、蔵田周忠のステンドグラスは今も聖ミカエル教会に残されている。

「山田守で言えば、人体を規範として抽象的に発展させた『自然式』という考えを持っていました。『建築はいずれ自然に近づく』といい、デザインは幾何学的なものから曲線に近づくと考えたのです。そうしたアイデアは聖橋のアーチや千住郵便局の曲面に見て取れます。ただ当時はコンピューターがなかったので、放物線や曲線は手書きでした。現代建築のように三次元的な曲面を実現する技術はなかったのですが、建築家としては近代的な自我を確立していました」(田路さん、以下同)

■近代建築の青春時代

「大学を卒業しようという若者が建築運動を起こしたのは、大正デモクラシーの影響でしょう。当時はいろいろな分野で『運動』が起こっていました。明治時代の国家主義的な時代から大正になって、民主化、大衆、市民の時代へ変わったことで、かなり自由な空気になったのだと思います」

 当時の建築雑誌では帝大の教授と一般の建築家による論考が並んで掲載され、著名な建築家に対して、「それは違うと思う」と議論を挑むといった自由な言論の空気があった。分離派も盛んに雑誌に寄稿している。

「スタート時、学生だった分離派のメンバーは具体的な実績がない状態でしたが、まずは旗幟(きし)鮮明にし、『自分たちはこうやるんだ』と先に宣言した。考えてみればすごいことです」

 後になると「若気の至りだった」といった発言もあったというが、分離派の活動は日本建築史の青春と見えないだろうか。

東大名誉教授の香山壽夫先生が『誤解されているが、分離派は反体制ではない。むしろ混沌(こんとん)とした建築の状況に対して、自分たちを鼓舞するために“我々は起つ”と言ったのだ』とおっしゃっています。『分離派建築会の宣言』は、自らに対してのものだったのです」

 メンバーが社会の中で活躍の場を広げるにつれ、分離派の活動は自然解散する。分離派時代の建築の多くは取り壊されてしまったが、それでも記事中に紹介したように残された建築もある。訪れると、日本近代建築史の若い時代を見つけることができるだろう。(ライター・矢内裕子)

AERA 2020年12月14日号