なぜだ? なぜ中国はこのような人災をたびたび引き起こすのか? そう、私たちは彼らがうそをついているのを知っている。彼ら自身、自分がうそをついていることを分かっている。彼らは私たちが彼らのうそを知っていることさえ分かっている。しかし、それでも彼らはなおうそをつくだろう。

 かりに今回のように、私を含む、武漢人一人ひとりの身に危機がもたらされるのでなければ、私たちは、私自身を含め、とっくに欺かれ、無視され、犠牲にされる状況をごくありきたりのことと捉えていただろう。

 私は2月2日に自宅で14日目を無事迎えたが、それから来る日も来る日もネット上で目にしたのはすべて助けを求める声であり、家族を失った人の慟哭であり、救命の最前線にある医療スタッフの悲壮な境遇であった。圧倒的多数の人々の善良な心が基底にあるのを私は否定しない。身辺にこのような惨劇が起きると誰でも心を痛める。私も何度涙したことか。

 ただ、私たち一人ひとりが刻々と危険を感じていたのだ。他人事ではない。だから、自分がトイレを通じて、下水管を通じて、エスカレーターを通じて、生活ごみを通じて、エアロゾルを通じてウイルスに感染するのではないかと心配した。いまだ特効薬が確認されていないという状況であったから、万一感染したら自分の免疫力を頼りになんとか乗り切ろうと思った。流行がコントロールを失い私たち一人ひとりが、私自身を含め、ウイルスに取り囲まれていたからこそ、このように強い怒りを発するのだ。

■眠れない夜

 しかし、こうした怒りの持続を私たちは変革のための原動力、さらには実際の行動となし得るだろうか? 断じて言う、あり得ない!

 2月6日深夜、「内部通報者」李文亮医師の凶報に接して、私は深い物思いに沈んだ。それはロックダウン後初のまっとうな思考だった。その夜はほとんど眠れなかった。

 それ以前の2週間、家に籠りっぱなしだった私は、ずっと部外者のような感じがしていた。武漢封鎖の暴挙は私を震え上がらせ、この10日間は慟哭、助けを求める叫び、この上ない惨劇が天地を覆ったが、どうやら本当に心を揺さぶったわけではなかったようだ。少なくともウイルス禍の中心にいる私を突き動かして何かをしたいという気にさせたわけではなかった。

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まったく恥ずかしい話!