しかし、ニュー・アルバム「前夜 ピチカート・ワン・イン・パースン」は違う。全曲小西が歌を担当し、演奏はバック・メンバーにおまかせ。自分の曲を優れた伴奏とともに自身のボーカルで披露する。まるでリサイタルといった風合いとも言える。

 正確にいうと、この作品は昨年10月に「ビルボードライヴ」で開催されたパフォーマンスを収録したライブ・アルバムだが、そもそも小西が「ピチカート・ファイヴ」時代を含めてもライブ盤を発表することは珍しい。お客さんからの温かい拍手も聞こえるし、照れくさそうな小西のトークも収録されている。それでも思う。このアルバムは実況録音盤という以上の大きな意味を持った作品ではないかと。
 
 バックはヴィブラフォン(香取良彦)、ピアノ(矢舟テツロー)、ギター(田辺充邦)、ベース(河上修)、ドラム(有泉一)というユニークな5人編成。小西が好きなティム・ハーディンやローラ・ニーロといったアメリカのシンガー・ソングライターが過去に発表したライブ・アルバムと同じ編成であることにニヤリとするファンも多いかもしれない。だが、ここで重要なのは、そうした達者なメンバーによるモダンな演奏をバックに、小西が気取らず、カッコつけず、堂々と歌を歌っている事実だ。「ピチカート・ファイヴ」時代から小西が発表してきた曲は、いずれも歌いにくいものばかり。小西自身、自ら書いた曲の難しさに今回改めて閉口したそうだが、渋みを増した低くおおらかな歌声がそんな難易度の高さを軽く凌駕(りょうが)する。これがあの小西康陽か?と思えるような、表情豊かでヒューマンな歌は、まるでフランク・シナトラやアンディ・ウィリアムスさながらだ。ポップ・ミュージックというよりボーカル・ミュージックと呼ぶにふさわしい。

 特に「また恋におちてしまった」から「子供たちの子供たちの子供たちへ」へと続く終盤が圧巻だ。もしかしたら、音程やテンポが少しばかりズレているかもしれない、と思える瞬間もないわけではないが、そんなことより大切なものがここにある、と言わんばかりの奥行きある声の表現力に思わず鳥肌が立つ。

 小西康陽は昨年、還暦を迎えた。それでも堂々とボーカリストとしてステージに立つには恥ずかしさがあるだろうし、この瞬間もアルバム・タイトルさながらにまだ「前夜」かもしれない。だが、筆者にはここから次の新たなキャリアが始まる瞬間のように思えてならない。それほどこの「前夜」は「夜明け」にも匹敵するエポックメイキングな作品なのである。(文/岡村詩野)

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岡村詩野

岡村詩野

岡村詩野(おかむら・しの)/1967年、東京都生まれ。音楽評論家。音楽メディア『TURN』編集長/プロデューサー。「ミュージック・マガジン」「VOGUE NIPPON」など多数のメディアで執筆中。京都精華大学非常勤講師、ラジオ番組「Imaginary Line」(FM京都)パーソナリティー、音楽ライター講座(オトトイの学校)講師も務める

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