「映画の冒頭、豪雨のなかで夫を轢き殺したシーンで、田中裕子さんが着るタクシー会社の制服のネクタイが曲がっていたんです。その感じがいいなと思っていたら、実は縫いつけてあった。すごいなと思いました。ネクタイの曲がり方一つでそれまでの経緯をあらわしている。ぼくは情念の女優として田中さんが日本でいちばんだと思っている。待ったかいがありましたね」

 映画監督の若松孝二に師事し、2010年「ロストパラダイス・イン・トーキョー」で長編映画デビュー。13年に「凶悪」で数々の監督賞を受賞して注目を集めると、17年の「彼女がその名を知らない鳥たち」でブルーリボン賞監督賞を受賞。翌年も「サニー/32」「孤狼の血」「止められるか、俺たちを」で同賞を2年続けて受賞している。「ひとよ」もまた、19年に「キネマ旬報ベスト・テン日本映画監督賞」を受賞した。今、白石作品には著名俳優たちがこぞって出演したがる。

「日本で一番悪い奴ら」や「孤狼の血」「ひとよ」など、多くの白石作品に出演した俳優の音尾琢真(おと お・たくま 44)は人気の理由をこう述べる。

「どの役も、ちゃんとキャラクターが立つような演出をしている感じがするんです。メインの俳優が存在感を出すのではなく、その物語を生きる人になっている。主役も脇役も関係なく、どの役もおもしろくしようという思いが白石さんにはあって、役者は違和感なく演じられるんです。他の監督だと、主役を引き立てるためだけの脇役だったりとか、抵抗を感じる役柄も多いのですが」

「ひとよ」の原作は、劇団「KAKUTA」を主宰する桑原裕子(43)の舞台である。桑原は映画化に際し、この作品を単なるヒューマンドラマや、家庭内暴力や母親の病理といった社会派ドラマにしてほしくなかったという。

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暗闇を知っている人