両議員に必要な介護費を“職場”である参議院が負担していることに、ネットや一部国会議員からは「議員優遇」「特別扱い」といった批判が出ている。

「おっしゃる通り、私たちだけが特別扱いされるのはおかしい」と、インタビューに答えて木村は言う。

「24時間365日の介護が必要な私たちにとって、介助者は命綱。議員であるなしにかかわらず、介助者がいないと水も飲めず、トイレに行くこともできないんです。重度訪問介護サービスを生活のあらゆる場面で使えるようにしてほしい。そもそも、働くことや学ぶことは国民の権利として認められているのに、就労・就学時に利用できないことには矛盾がある。それを法律で変えていきたいんです」

 生後すぐ事故で障害を負った木村は、19歳まで神奈川県の施設で過ごした。

 食事、入浴、排泄まで管理され、健常者との生活とは全く異なる暮らし。「これを一生続けていきたくない」と、家出同然で地域に飛び出した。

 当時、彼女が頼ったのは、1970年代に始まった障害者人権運動の中心的存在で脳性まひ者の三井絹子(74)だった。障害があっても当たり前に社会に出て生きていいという信念のもと、三井は施設入所者の意思を無視した東京都立府中療育センターへの抗議運動や、現在の重度訪問介護制度につながる重度脳性まひ者への介護保障要求などをしていた。そんな三井が代表を務める障害者自立支援団体「かたつむり」に、若き木村は駆け込んだ。

「小さな荷物一つで着の身着のまま訪ねてきた英子は、何があっても施設に帰らないという気概があった。でも、引っ込み思案だった彼女は、健常者に声をかけることもできないでいた」

 当時の木村について、三井は指文字という手法で時間をかけて語った。

「階段を上るのを手伝ってください、このお金で電車の切符を買ってください、トイレを手伝ってください、とその場で出会う人たちにお願いするところから始まりました」と木村自身が振り返るように、障害者の自立は、勇気を出し、見知らぬ人に助けを求めるほか方法がなかった。やがて、自分で生活をする術を身につけた木村は三井の元を離れ、別の街で自立生活を始める。そして障害がある仲間を支えるべく、自立支援の場を立ち上げた。

「障害者が介護保障を受けるには、当事者が国や市区町村に何度も通い、交渉をするしかない。英子は制度が何も整っていない土地で、自分の命をつなぎ活動をしてきた。これは本当に大変なこと。そんな彼女の強さで、私たちの声を少しでも国会に届けてほしい」

 と三井は期待をかける。(文中敬称略)(フリーライター・玉居子泰子)

AERA 2019年9月9日号より抜粋