がれき撤去作業中の1号機の原子炉建屋(左)。2号機(右)では2月、核燃料(デブリ)と見られる物体に初めて触れた/2019年2月15日、福島県大熊町で (c)朝日新聞社
がれき撤去作業中の1号機の原子炉建屋(左)。2号機(右)では2月、核燃料(デブリ)と見られる物体に初めて触れた/2019年2月15日、福島県大熊町で (c)朝日新聞社
平成の主な自然災害(AERA 2019年4月1日号より)
平成の主な自然災害(AERA 2019年4月1日号より)

 東日本大震災から8年。約5万2千人がいまだに避難生活を続けており、福島第一原発の「廃炉」への道も遠い。「災害記者」として震災直後に現地入りしたジャーナリスト・外岡秀俊氏が、震災当時の状況と現地のいまをリポートする。

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 3月7日から11日まで、岩手県宮古市田老から陸前高田市へと、三陸地方を南下した。東日本大震災から8年。沿岸には切れ目なく防潮堤が続き、津波で被害を受けた地域にも新築の家が目立って増えた。大槌町安渡の白銀照男さん(70)も昨年、港を望む坂の中腹に新居を建てた。だが巨大な防潮堤と水門にさえぎられ、海岸線は見えない。

「本当は陸地を嵩上げしてほしかった。海が見えないと、つい安心して、津波が来ても逃げないんじゃないか」

 あの日は仕事で盛岡にいた。妻と娘、母親の3人が犠牲になった。

「つらくてさびしいのは、俺だけじゃない」

 いまだに避難生活を続ける約5万2千人はもちろん、うわべは落ち着いたかに見える人々も、傷は癒えない。

 同町浪板の佐々木格さん(74)は、震災前から庭に電話ボックスを置いていた。電話はあるが、線は繋がっていない。独りになって亡き人と話す鎮魂の空間だ。その「風の電話」に、震災後大勢の人々が足を運び、メッセージ帳も5冊目になった。9日、その前日に母が娘に宛てて書いた言葉を読んだ。

「今どうしている? 新しい生活送っているかな? きっとあなたなら、自分で悲しみをのりこえてやってる、と思っているよ。おとうさんもおかあさんもあなたのところに行けるまでがんばっているからね」

 あの震災から9日後に、宮城県気仙沼市で会った医師の言葉を思い出した。地元の医師や警察は、ご遺体が顔見知りばかりなので、検視するのもつらい。代わって検視をする医療ボランティアの仕事をしていた。

「どうして、車ごとさらわれた人がこんなに多かったか、わかります?」

 答えられずにいると、初対面のその医師がこう言った。

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