池上町の迷路のような特殊なつくりには、京浜工業地帯としての川崎の歴史が反映されている。いまの川崎区北部にあたる川崎町の議会で「工業招致を百年の町是とす」という決議が採択されたのは1912年のこと。同年、日本初の鋼管製造会社である「日本鋼管」(JFEの前身)が臨海部で工場建設に着手。敷地の内陸側に隣接したエリアが現在の池上町だ。もともとは葦が生い茂り、大波がくれば海水を被るような荒れ地で、工場で働くため朝鮮半島からやってきた人々が、そこに立つ粗末な家を借りて住み始めた。

 30年代初頭には在日コリアンの集住地区として認識されていたという証言が残る。その後、39年に日本鋼管が一帯を買収して労働者のための宿泊施設、いわゆる飯場を建設。戦後になると、日本に留まった、あるいは混乱期の祖国から渡来した朝鮮人が仕事とコミュニティーを求めて集まってきた。バラック群は拡大し、複雑な路地を形成。その名残がいまも池上町にあるのだ。

 Barkの両親は、家賃の安さに惹かれて池上町に住み始めた日本人だ。駅から離れている上、JFEの工場と常にトラックが行き交う産業道路に挟まれ、住環境は良いとは言えない。ただ、昔ながらのコミュニティーの温かさが残っていて、食卓にはいつも近所からおすそ分けされたキムチがあった。食事を終えると、自分の部屋がない彼はイヤホンをつけ、町内を散歩しながら新曲を練ったという。それもあって、歌詞には自然と街並みが現れる。

●高度経済成長を支えた、労働者たちが暮らした町

 池上コインランドリーの「事件」の最中、産経新聞がウェブに、池上町についての記事を立て続けに掲載。1本目の見出しは、「川崎『不法占拠』、戦後70年いまも JFEスチール対策強化 在日朝鮮人ら居住」(18年11月30日付)だった。

 前述したように、池上町の土地の6割ほどは、日本鋼管が所有し、JFEに受け継がれている。一方、そこに家を建てているひとたちはJFEと契約を結んで地代を払っているわけではない。それが“不法占拠”と捉えられた。

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