その一例として、太平洋戦争後期のインパール作戦を挙げる。旧日本陸軍が1944年、敵国・中国に入る援助物資を遮断しようとインド北東部の攻略をめざした作戦だ。誤った決断を幾度となく繰り返した「史上最悪の作戦」と揶揄(やゆ)され、無謀な戦いの代名詞ともなった。

「一般には牟田口中将が強硬な主張に加え、補給を軽視した粗雑な計画を生み出したことから、彼一人の責任というイメージが先行している」(広中さん)

 牟田口中将の上官には現場責任者の河辺正三司令官がいた。東条英機首相の命令に従い、牟田口中将をサポートする立場にあった。例えるなら、社長が東条、エリアマネジャーが河辺、店長が牟田口といったところか。

 しかし、「牟田口中将の言動に対して、河辺司令官は傍観の態度を崩さず、結果的にやりたいようにやらせた。部下に任せっきりで、私には責任はないと」(同)。

 インパール作戦は、河辺司令官が「決断の放棄」という決断を下したことで、「最悪の結果になったことは否めません。河辺司令官のような上と下をつなぐ中間管理職が決断を放棄すると悪循環に陥る」(同)。

 牟田口中将が戦争初期に大勝利をあげたことから、「成功体験に酔って相手を侮っていたところが大きく判断を誤らせた」(同)ことも無視できない。木曽義仲も戦勝に浮かれ、周りの状況が見えなくなって西上したことで、自らの首を絞めることにつながった。成功体験に惑わされず、仲間の意見に耳を傾けて兜の緒を締めることができるか否か。これがよい決断を下すうえで欠かせない姿勢と言えそうだ。(ライター・我妻弘崇)

AERA 2018年12月24日号