

哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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若いテレビ制作者たちからこれからテレビをどうしたらいいのか、相談を受けた。せっぱつまった表情である。テレビが末期的だということを、現場の諸君は肌身にひしひしと感じている。
今国会では入管法、水道法、漁業法などこれからの国民生活に深い関わりを持つ重要な法案が十分に審議されずに採決されたが、テレビはその当否を主体的に吟味することなく、与野党それぞれの主張を「両論併記」的に伝えて、「多数決で採択されたが野党は反発」とまるでありきたりの自然現象のように報じた。特に未明まで続いた入管法審議についてのテレビの熱意のなさは、際立っていた。
国民生活に深くかかわる死活的に重要な論点を取り上げずに「スルーする」と、それが何か局の上層部の「手柄」にカウントされるのかもしれない。
けれども、メディアが問題の掘り下げを怠るということはメディア自身の自己否定に等しいということは自覚していた方がいい。
現に、各局ともニュースの視聴率はとめどなく下がり続けている。このままでは、遠からず民放というビジネスモデルそのものの存亡の危機が切迫している。だが、その切実さがテレビ画面からは感じられない。
私自身はテレビを見なくなってもう久しい。周りもそうだ。学生たちはもうほとんどテレビを話題にすることはない。先日引っ越しをした若い夫婦は邪魔なので受像機を「捨てた」と言っていた。
子どもの頃、私はほとんどテレビにかじりつくようにして生きていた。それほど
60年代の草創期のテレビは面白かった。その時代の作物に比べるのは気の毒だけれど、今のテレビには冒険心も悪戯心も批評性もない。テレビは「もう終わった」と思う。
もちろん蘇生するチャンスがないわけではない。「なぜテレビはこんなにダメになったのか?」を問うことができるだけの批評性と知性があればテレビにも生き延びるチャンスはある。自分の足元が崩れかけているときに、それを記述することも分
析することもできないメディアが、おのれ以外の事象についてだけは適切に記述し、分析できるはずはない。
※AERA 2018年12月24日号