11日の開場にむけてターレーの動線などを確認する市場関係者 (c)朝日新聞社
11日の開場にむけてターレーの動線などを確認する市場関係者 (c)朝日新聞社
7街区にある水産卸売場棟。屋外と市場内部は自由に行き来できない構造になっている (c)朝日新聞社
7街区にある水産卸売場棟。屋外と市場内部は自由に行き来できない構造になっている (c)朝日新聞社

 なぜ築地市場の移転先は豊洲だったのか。最初に築地移転の計画が持ち上がったのは高度経済成長真っただ中の1960年代。東京の人口が増大したことと、物流の中心が鉄道から道路に変わり、市場に乗り入れるトラックの動線などが確保できないことが理由だった。しかし、移転構想は大井市場用地(現大田市場)への全面移転案、築地再整備案などの紆余曲折を経て行き詰まる。

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「豊洲・晴海開発整備計画」が持ち上がったのはそんな最中だった。かつてこの地には東京ガスのガス製造工場があった。整備計画の中で、この工場跡地は使い道が決まらず、ぽっかりと空いていたのだ。東京都は色めき立った。

「築地にも都心にも近く、公共事業という側面からも用地買収が容易だったのです」

 移転計画を担当した東京都港湾局の関係者はそう振り返る。ただ、築地を有する中央区は移転に激しく抵抗した。

「移転先の豊洲は江東区だったためです。中央区は長い年月をかけて築きあげた『世界のTSUKIJI』というブランドをみすみす手放したくない。築地で働く人々の中にも同様の意見はかなりの割合でありました」

 2001年、石原慎太郎都知事(当時)は豊洲への移転を正式決定。しかし、残された最後の課題である「土壌汚染対策」をめぐり都政は混乱した。そして16年7月、都知事選に圧勝した小池百合子氏が豊洲市場への移転見直しを打ち出した末、最終的に移転を決定。その間も、土壌汚染対策の不備発覚や有害物質の検出は後を絶たなかった。

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