──私も読みました! それで、移住者同士のネットワークがつくれるような、多少は地元色が薄まった土地に再移住したと。

松村:気持ちは分かるけれど、何かがズレているなと思ったんですね。僕たちは既にプライバシーを、見えないところでいっぱい開示している。だって、高速道路を車で通過しても、ネットで物を買っても、記録は残る時代だし、その情報を握るのは、顔が見えなくても人なんですよね。でも、それは気にしない。

──サラッとしすぎる人間関係じゃ物足りなくなって移住しても、やっぱりドロッとした関係性はウザいねというのが本音なんですね。

松村:洗濯物を隣人が見てくれるというのは、高齢者なら見守りになる。再移住した人たちも、コミュニティーが高齢化したら「洗濯物は見合おうね」となるかもしれません。

──日本人だって、かつては長屋で身を寄せ合って暮らしていました。そもそもプライバシーという考え方自体、個人が国家に所属するという前提ができてから生まれてきたんですよね?

松村:お互いをよく知っていることは、自分たちの問題にともに対処するときに必要不可欠でした。国家による統治と連動するかたちで、「自分たちの問題も行政にお任せすればいい」という意識が芽生えたのでしょう。その上、経済の「交換」という脱感情化された領域が幅を利かせるようになり、ドロッとした身近な人間関係を絶っていったわけです。

──世の中のバランスを取り戻すには、「贈与」の力が必要だと?

松村:「贈与」は人と人を結びつけます。エチオピアの街で物乞いの老婆から不意に手を突き出され、最初は戸惑いました。全部の人を救うわけにもいかないしと。でも、エチオピアの人びとは、こともなげに小銭を渡している。金持ちの外国人が与えずに、あまり豊かではない現地の人が分け与える。いかに僕らが普段、「交換のモード」に縛られているか、ですよね。目の前に格差があって、「うしろめたい」と思ったら、感情のままに与えればいいんだと。誰かを救えるか、なんて考えること自体がおごりでした。ポケットにある小銭を渡せばいい。それで物乞いの人とも顔なじみになる。その関係を結ぶことのほうが重要だと思います。

(聞き手/ノンフィクションライター・古川雅子)

AERA 2018年9月3日号より抜粋