バングラデシュ政府が急遽つくったクトゥパロン難民キャンプ=2018年1月(撮影/ジャーナリスト・木村元彦)
バングラデシュ政府が急遽つくったクトゥパロン難民キャンプ=2018年1月(撮影/ジャーナリスト・木村元彦)
バルハリキャンプの急造トイレ=17年10月(撮影/ジャーナリスト・木村元彦)
バルハリキャンプの急造トイレ=17年10月(撮影/ジャーナリスト・木村元彦)
アウンサンスーチー氏を弾劾するポスター=18年1月(撮影/ジャーナリスト・木村元彦)
アウンサンスーチー氏を弾劾するポスター=18年1月(撮影/ジャーナリスト・木村元彦)

 昨年のミャンマーとバングラデシュ両政府の合意後も、遅々として進まないロヒンギャ難民の帰還。水害による命の危険も迫るなか、日本政府がすべきこととは。

【写真】バルハリキャンプの急造トイレ

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「あの合意でミャンマーに帰る者はいないよ。少なくともこのクトゥパロンには一人もいないだろう」

 昨年8月以来、ミャンマー軍による迫害を受け、バングラデシュへの流出が続いていたラカイン州のイスラム教徒=ロヒンギャ難民の数は70万人を超えたと言われている。

 バングラデシュ政府は難民条約を批准していないが、人道的立場から難民キャンプを急遽つくり、これを受け入れていた。しかし、さすがにこの膨大な数と流入の速さは尋常ではなくキャパシティーを超えていた。昨年11月23日、ミャンマーとバングラデシュ両国政府が難民帰還についての合意文書に署名し、2カ月以内に帰還を開始するということになった。ミャンマー外務省は「2年以内に全員を帰還させる」と宣言。日本政府もこれに対し、1月12日に河野太郎外務大臣がアウンサンスーチー国家顧問と首都ネピドーで会談し、ロヒンギャ難民帰還のために「ミャンマー政府に寄り添う」として約25億円の支援を申し出た。これらの動きはあたかも事態が平和裏に収束へ向かっているかの印象を与えた。

 しかし、決してそうではなかった。筆者は帰還開始が決まった1月16日にクトゥパロンの難民キャンプを訪れた。冒頭のコメントはそのときにコミュニティーの長とも言える75歳の老人から聞いた言葉である。

「故郷には誰もが帰りたいと思っている。しかし、ミャンマー政府が提唱している帰還と再定住はとうてい受け入れることはできない。我々は帰っても国籍のないまま外国人として登録されるのだ。収容されてラカイン州の外に行くことも就労の自由もない。何よりもまた迫害の恐怖に晒されて殺されてしまうことが怖い」

 そもそもロヒンギャに対する民族浄化は、1982年に制定されたビルマ市民権法によってミャンマー国籍を剥奪され、違法移民におとしめられて合法的に行われてきた。今回の合意に基づいて帰国を果たしたとしてもその地位は何ら変わらず、しかも外国人として自ら登録してしまえば、父祖の土地を完全に放棄することになり、いつ何時再び追いたてられるか分からない。

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