中世の繁栄後、言葉や文化を禁止されるなど迫害の歴史が続いたカタルーニャの人たちだが、以前は独立を望む人たちは2割ほどだった。カタルーニャのアイデンティティーが尊重されればいいという考えが主流だった。それが昨年10月の住民投票で約9割が賛成票を入れるほど独立意識が急激に強まったのは、「2010年が境目」だと田澤教授は説明する。

 独裁色が強かったことで知られるフランコ政権時代(1939~75年)が終わると、スペインは民主化の道を歩み始め、カタルーニャも自治を回復する。78年にはスペインで現行憲法が制定され、その憲法で許された範囲内で、カタルーニャも独自の自治憲章をつくった。この自治憲章は06年に改正され、一つの民族であることや、カタルーニャ語の使用拡大などを盛り込んだ。当初の自治憲章が「地方の特色を出してもいいですよ」(田澤教授)という程度の内容だったのに対し、改正版はアイデンティティーを前面に強調した内容となった。それでも自治州であることに変化を求めるものではなかった。

 改正自治憲章は、中道左派・社会労働党が与党だったスペイン国会でも部分的な修正をした上で承認された。ところが、野党の中道右派・国民党が激しく反発し、違憲だとして憲法裁判所に提訴。そして、これを違憲とする憲法裁判所の判決が出たのが10年だ。この後、国民党が政権与党となり、独立阻止が中央政府の確固たる方針となった。

 カタルーニャの独立の是非を問う住民投票が実施された昨年10月、中央政府は、投票所の封鎖を命じるなどして選挙の妨害を試みた。大量動員された国家警察によって、800人以上もの住民らに負傷者が出た。住民投票の結果を受けて、プッチダモン州首相(当時)が独立宣言をすると、国会は自治権停止を承認し、中央政府は州首相らを更迭、州議会を解散させた。

 主権国家にとって領土を失うことが大問題であることはスペインでなくても同じ。だが、実力行使で独立派を無理やり抑え込もうとする姿勢が、ますますカタルーニャの人々を独立にかき立てているのが現状だ。(編集部・山本大輔)

AERA 2018年2月26日号