タレントでエッセイストの小島慶子さんが「AERA」で連載する「幸複のススメ!」をお届けします。多くの原稿を抱え、夫と息子たちが住むオーストラリアと、仕事のある日本とを往復する小島さん。日々の暮らしの中から生まれる思いを綴ります。
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高校生の時、オーストラリアから交換留学生が来ました。金髪に青い目の女の子。ある朝彼女が、私をじっと見つめて言いました。「なんであなたは日本人なのに、他の子と違って髪と目が茶色いの?」。私は驚いて答えました。「日本人の目や髪は全員同じ黒じゃないよ。みんなちょっとずつ茶色が混ざっていて、私みたいに明るい茶色の人も、中には真っ黒に近い人もいる。一人一人、微妙に違うんだよ」。すると彼女はへえと言って、周りの子を改めて眺めていました。
そう、私たちはみんな違うのです。ただ、金髪と黒髪や、青い目と緑の目ほどは違わないから分かりにくいだけ。
私の目は明るめの茶色で髪はわずかに茶色がかっています。父と母の目は焦げ茶色で、髪は黒。姉の目は私よりも明るい茶色で、髪は艶のある黒。当然ながら、家族だってバラバラです。
髪の色が他と違うのはけしからんから黒く染めろというなら、全員染めなきゃ理屈が通りません。だって厳密には、全員他と違うのですから。いっそのこと分かりやすく、揃って蛍光ピンクにでもすればいい。大量生産品みたいに、寸分違わぬ色かたちで。同じであれと強いるのは、それぐらい理不尽なことです。
アメリカのピュー研究所が行った調査によると「多様性は自国を良くする」と回答した日本人は24%、ダメにすると答えたのは57%。言葉も文化も同じ人々から成る日本社会に異分子が増えるのはごめんだ、と考える人もいるでしょう。多様性と聞くとそのように「これから多様になる社会」をイメージしがちですが、私たちはすでにずっと前から多様なのです。違いは目の前にあります。自分によく似た、親しい人との間にも。
同じで当たり前の仲間からはみ出すなというのは、規律ではなく「あなたはあなた自身であってはならない」という暴力です。その違いを忘れてはならないと思います。
※AERA 2017年11月13日号