●ここ一番のチャンスを逃さず勝負をかける

 そのピークもあっけなかった。世襲議員の線の細さやもろさが表面化し、閣内をまとめきれない。閣僚の不祥事が続き、持病の悪化もあって、わずか366日で自ら辞職した。この挫折が、ゼロからのスタートとなった安倍氏を皮肉にも強くした。5年後の12年、自民党史上初となる別の人物を挟んでの総裁再就任に。その後の総選挙で圧勝し、現行憲法下では初めて、一度辞任した首相の再登板を果たした。

 メルケル氏の出世スピードは安倍氏よりも速かった。名門の家柄など寄りかかるものは最初から何もなく、身一つで対立勢力を押しのけながら、自ら切り開いた頂点への道だった。

 首相就任は、安倍氏の約10カ月前の05年11月。東西ドイツが再統一された90年10月の2カ月後に総選挙で初当選すると、いきなり女性・青年担当相を任された。引き立てたのは、CDU党首で首相だった故ヘルムート・コール氏だ。メルケル氏の政治の師匠と言われるコール氏の政権下では、常に入閣して重用されるが、周囲からは東ドイツ出身者と女性の登用を強調するためのお飾りだと皮肉られた。保守政党のCDU内にあってリベラル派と見られていたこともあり、単なる「コールのお嬢さん」と呼ばれて軽視された。

 98年の総選挙で大敗したCDUが下野すると、コール氏は党首の地位もなくした。さらにコール政権時の同党にヤミ献金問題が発覚すると、メルケル氏は手のひらを返すように、いち早くコール批判を展開。コール氏の後継の党首も辞任に追い込まれると、すかさずメルケル氏は党首の座を手に入れる。ちょうど安倍氏が再起をかけた12年の自民党総裁選で、所属派閥の重鎮を押し切って立候補し、復活への扉を自力でこじ開けたよう。メルケル氏も、ここ一番のチャンスを逃さなかった。

 ただ、この時も「一時的なつなぎ役」と言われ、評価は相変わらず低かった。メルケル氏は、相次ぐ地方選挙での勝利などを通じ、実績を積み上げることで軟弱な権力基盤を強化していった。その手腕を徐々に認める議員が増え、05年の総選挙に勝利して与党に返り咲くと、激しい条件闘争となったSPDとの連立協議を全く引かない交渉術で乗り切って、同国初の女性首相になった。それから一度も政権を手放していない。単なる「コールのお嬢さん」だったメルケル氏は、国内では「ドイツの母」と言われるようになり、国外では故サッチャー元英首相のお株を奪う「鉄の女」と称された。

次のページ