「人生は、とても短い。振り返って間違いがあったと気づいても、それを正すチャンスはない。ひとは、多くの間違いを犯したことを受け入れ、生きていくしかないのです」

 記念講演会は、作家の池澤夏樹との公開対談だった。池澤の手首についた小さなコンパス(方位磁石)に、イシグロが興味を示した。池澤は、

「地下鉄の駅から出ると、よく迷ってしまうんですよ」

 と答え、会場を笑いに包んだ。そこに、イシグロの淡々とした声が響く。

「わたしたちは、時には迷いたいと思い、時にはそれを恐れる。人生のコンパスが必要なのに、どこかで失ってしまったと感じている」

 会場の読者は、そこにイシグロ文学を感じた。『わたしたちが孤児だったころ』の主人公は終盤、古い友人アキラと再会する。しかし、それは事実とも妄想ともつかぬ不思議な場面だ。

「わたしも、本当のアキラではないと思う」

 作家が自ら、作品の不可解さを表明した。イシグロの小説では、読み手もまた迷い人となる。

「先生、もっと書いてください」

 すっかり寡作となった作家に、ファンが詰め寄った。ここでもイシグロは、生真面目に自分の小説世界を語り続ける。自分は満ちあふれるインスピレーションで書くような作家ではないのだ、『日の名残り』には事前調査に2年間を費やした、と。

「わたしにとって小説を書くことは、小さな部屋で自分と静かに向き合うことなのです」

(AERA編集部)

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